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日常と非日常の混じるところ

日常とは日の常(いつもと同じで変わりのないこと)と書くのだから、毎日の変わりのない生活のことを言うのだろう。私は平日だと朝六時、休日だと朝九時ぐらいに起き、ストレッチをして朝ごはんを作る。日中に色々作業して、夜はNetflixを見たりヨガをしたりして夜十一時ぐらいには寝る。

基本的に朝型人間な私は、多少の起床時間のズレや日中作業の違いはあれど、この生活をかれこれ一人暮らしを始めてから十年以上続けている。そう意味では何も変わらない日常を十年以上もよく飽きずに続けられるものだなと思うと同時に、何も変わらない日常を守り続けることがいかに大変かと言うことも身に染みてわかっている。

私は日曜日の今日、朝九時ごろに起きていつものようにストレッチをした。明日は月曜日だから六時に起きるのだろう。その次の日も、またその次の日も、同じ日々を繰り返すだけ。

そういう意味では私の日常に何も変化はないのだけれど、確実に今までと違う世界が外に広がっている。人の乗っていないトラムやバス、シャッターが下ろしっぱなしのレストランやカフェ、妙に他人との距離を気にしながら歩く人々。私は大学院生だが、大学に行かなくなり、ずっと家の中に籠っている。

生物としての私はこれまでと同じように起床し、朝昼晩とご飯を食べ、決まった時間に就寝しているが、社会の中にいる私は今までと同じようには生活出来なくなった。何も変わらず日常を生きているだけなのに、同時に非日常を生きていて、これは今までに経験のなかった出来事だ。

社会の端くれで、しかもかなり場所と時間に融通の効く大学院生の私でもこれまでの日常がなくなってしまったのだから、もっと社会の中心で働いている人々は昨今の変わりゆく状況を前に、崩れゆく日常を素直に受け入れることは難しいように思う。

昨日太陽が登ったから、今日も太陽が登るし、きっと明日も登るだろうと考えるのは正常な人間の頭だろうが、よく考えれば明日太陽が登る約束なんてどこにもないのだし、時には冷静になって自分の日常を変えなければならないときもあるかもしれない。