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科学と雑貨(博士課程を終えて)

前回の更新からかなり長い間時間が空いてしまった。その間、無事博士号を取得しました。博士論文を書くのは、巷で言われている通り(?)骨の折れる作業で、寺田寅彦のいう頭のいい人は登らない山だと思うのだが、頭の悪さゆえに好奇心で登ってしまい、中途半端に登ってしまったもんだから今から引き返して降りるのも大変だということで、時間をかけてなんとか登頂したという感じである。というわけで研究者にならない私にとって博士号の取得は、これから研究者になっていくために必要な準備段階というわけでもなく、またかといって博士課程中に身につけたスキルでより良いところへ就職するということでもない。ただそこに山があったから登ったというだけであり、それ以上でもそれ以下でもなかったと思う。

私の両親は本(漫画や雑誌除く)をよく買ってくれたのだが、本を読めと言われると読む気がなくなるもので、私はあまり本が好きでない子供だった。唯一好きだったのは誰かの自伝で、最初はピアノを習っていたこともありベートーヴェンやモーツァルトの自伝を読み、偉いと讃えられている人々も人間臭いところがあると知って、この頃からおそらく人間というものに興味を持ち始めたのだと思う(だから今まで心理学とか認知科学をやってきたんだろう)。その後はなぜか科学者のアインシュタインやホーキングの自伝を読むようになり、宇宙ってかっこいいなと思い始める(確か高校生ぐらい)。まぁ物理をやる頭がなかったので物理学科に進むことはなかったのだが、ここで一見合理的な科学的な営みが非常に人間臭いものだと知る。

大学に入って科学そのものを研究する科学哲学という分野があるのを知り、他学部の授業を受けて非常に感銘を受ける。良い先生に巡り会えたというのも大きい。自分の専門は認知心理学だったので、科学哲学とは全然関係ないところにいたのだが、科学と疑似科学の線引きの問題など考えると、意外と科学を学ぶには良い分野なのかも?と思い、回り回って数年後に大学院に入り直して認知科学(人間に関する科学)で博士号を取ることになった。

このように科学というか科学的な営みが私の興味であった一方で、雑貨というものも私の関心を常に惹きつけるものであった。きっかけは浪人時代に北堀江にあった東欧雑貨のお店に行ったことであるが、そこには自分が今まで見たことのないような世界が広がっていて、鬱々としていた私は衝撃を受けたものだった。すごく静かな店内で、その当時は古い東欧の陶器や食器、紙やビーズ、ボタンなどがこれまた古そうな什器に入れられてずらりと並んでいた。それまで携帯でもなんでも新しいものが欲しかった私は、古いものの物々しい存在感に圧倒されたわけである。数十年や時には百年単位の年月を経て存在しているモノの重圧というか重厚な感じは新しいものにはない。また西欧ではなく東欧だったこともあり、どこか悲しげな雰囲気をまとったものに心動かされたのだと思う。

自分にとって科学と雑貨というのは、両方ともにまだ何者ではなかった十代の頃に心に焼き付いているものとして、いまだにずっと私の中にある。もはや人生のテーマと言っても過言ではないのではないかと思っている。問題はこの二つがどう結びつくかがいまだにわからず、ある程度科学のこと学んだ今は、これがどう繋がっているのか(またはいないのか)、私の直感が何か共通したものに反応しているのか、それを知りたい。もちろん博士号をとったぐらいで科学のことがわかったわけでもなく、そしておそらく研究者になったとて死ぬまでにわかるものでもないだろう。また雑貨に関しては、大学院に戻る前に雑貨屋で働いたり、世界中の雑貨を見回ったものの、そもそも何が雑貨なのかもわからない。今年で三十四になったが、今新たにわからないことで溢れかえっている感じである。

小学生の頃は、大学に行って就職して家庭に入って子供を二人ぐらい産むというような人生を思い描いていたのだが、そもそも大学受験に失敗して浪人し始めた頃から軌道が狂い始め、あてもなくヨーロッパで暮らしている。今は縁がありオランダに住んでいるのだが、今後どこにいくのだろうか(色んな意味で)。十ヶ月も更新しなかった本ブログであるが、やめろと言われない限りはしばらく博士中にかけなかったヨーロッパ暮らしのことを書いていこうと思う。