見出し画像

言葉と音楽とエトセトラ

あっという間にあと1週間!ということでまたお知らせから。

「No Friend but the Mountains: A Symphonic Song Cycle」初演コンサート
2021年3月21日(日) メルボルン時間17:00開演
Sidney Myer Music Bowl(チケットは事前に要購入)
曲目: Luke Styles 「No Friend but the Mountains: A Symphonic Song Cycle」
Zelman Symphony Orchestra、Melbourne Bach Choir
指揮:Rick Prakhoff
バリトンソロ:Adrian Tamburini
ゲストコンサートマスター:Wilma Smith

木曜日のリハーサルではやっと合唱+ソリスト+オケの全体練習に挑みました。諸々規制で以前より大きな部屋でリハーサルすることになって音楽に関連した場ではなくイベント会場みたいなところで練習するため音響に四苦八苦しながら(合唱が入ると急に物を言いますね、音響)来週末の本番に向けてラストスパートです。

さて以前も書いたようにこの歌曲集の歌詞は著者の拘留体験を綴った本から抽出されていてなかなかハードな内容になっていますが、特に9番目の歌にはいわゆるTrigger Warning=フラッシュバックなどを引き起こす可能性がある内容に関する警告が設定されています。Trigger Warningにも様々な種類がありますがこの歌曲の場合は「詳細な自傷行為の描写」が警告対象だそう。

Trigger Warningの重要さは常々承知していましたが自分が関わる作品で自分に該当するかも可能性が少しでもあるものはこれが始めて。リハーサルに際して歌詞のpdfがメールで送られてきたのですがもしかしたら、という感じなので一応それを考慮して読んでいません。とはいえ演奏の時は聴くことになるわけだし念のためにでもなにか配慮を頼んだ方がいいのかな、とちょっと思いましたが。
そもそも私、ジャンル・言語関係なく歌詞がとにかく耳に入ってこない人間で。実際(他の楽章を、歌詞を知らない状態で)リハーサルしたところほぼ言葉が聞こえませんでした。本番はマイクのフィードバックがどうなるかわからないので安心とも言い切れませんが。

そこで少し気になったのが例えば同じ文章でも文字として読むときと朗読される時と曲に乗せて歌われた時とそのトリガー反応に差が出るのか、どういう風に違ってくるのか?ということ(前述ケースはまた別として)。作曲する側としては言葉が描く感情や風景を増幅するのが音楽の仕事、と言いたいとは思いますがそうすると言葉のみの媒体と比べてよりトリガーに気をつける必要があるのか、逆に言葉によるダメージを和らげることはできたりするのか。楽器のパートは楽器のパートでまた別の表現がありますし、特にクラシック音楽の声楽曲は既存の詩や文章に対して音楽を書くのでそこら辺の関係性はポップミュージックの歌とは違ってくるのかも。

現代の音楽は器楽の表現も声楽の表現も多彩で、話すように歌う歌い方など言葉を強調するテクニックも色々あって。音楽の中での言葉の役割、というか音楽と言葉の表現の共存を考える材料になる作品も数多くあると思います。音楽に乗せると言葉が聞こえにくい人間なりに今回弾いてる作品を通じて考えてみたいと思います。

あと大事なおことわり一つ。
Trigger Warningが作品(どんな媒体・ジャンルでも)に設定されていてその警告の内容が自分にとってフラッシュバックなど害を及ぼすものであることが明らかな、または疑われる場合は可能な限り警告対象を回避することが大切です。そのための警告。
今回のコンサートの場合は「もしも懸念があるようだったら相談してください」という形でしたが、例えば第9楽章だけ席を外すとかそういう措置になるのかなと想像しています(そうすると例えば木管楽器とかだと他の人が一部パートを補完したりとかにもつながる)。何かしらん調整してくれるという姿勢は安心しますし、必ずしも文章の表現を変えるとかの形ではなく様々な段階で配慮ができるというのもまた別の意味で安心を感じます。元の文章を書いた著者の語った言葉がこの歌曲集を通じて伝わりますように。