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信じてたとか裏切られたとかしゃらくせえって話。

 昔からよく思っていたことがある。
 アニメや、ドラマの中での展開。
「信じてたのに」
 相手の話を遮り、涙を流しながらこの言葉を突き付けて立ち去る展開。
「裏切ったな!」
 こういうセリフとともに、今まで仲間だった相手と敵対する展開。
 腐るほどあるこのストーリーが、なんだかモヤモヤとしていた。
 もちろん物語上必要な要素だったりすることは理解している。ただ、今までずっと信頼して一緒にやってきた仲間等に対してそういう態度!? という気持ちが捨てきれなかった。
 大人になり、いろいろ知ってから自分の中で軸を立てた。
 信じたら、自分の責任!
 こう思うことで、自分の中ですっきりできたよ! というだけの話をしていく。
 
 そもそも信じるって何だろう? 裏切られったって何だろう? というところから始まるんだけど、これって自分本位でしかないと思っている。
 相手を信じる、裏切られたって、自分の中だけの話。それを押し付けられたらたまらない。たまらなくない? 
 たとえば、「結婚していた相手に浮気された」ならわかる。結婚は契約でもあるし、ちゃんと約束しているから、それに反したことをされて「裏切られた」はすごくわかる。恋人同士でも、口約束と言えど相手のことだけを好きでいるっていう明確な約束を破られたわけだから、これもまあわかる。あと仕事が関わるとそれもまあわかる。
 さて、プライベートの友人関係での信じてた、裏切られたがさっぱりわからない。だいたいが、片方が勝手に信じてた内容と違うことをしたら裏切られたと言われるパターンばかりだから。
 
 私がTwitterでアカウントを作り直すきっかけになったことがある。
 とある有名な方を持ち上げる空気の中で、どうしても納得いかないことがあったので異を唱えた。そのときに私に事情を聴いてくれたり、私と同じように感じると発信してくれた人はごくわずかだった。会って楽しく食事をしたことがある人、仲良くなれたと思っていた何人かは、その有名人のほうを(敢えて言うなら)信じた。まあ、ショックだった。
 でも、このとき私は特にその人たちから「裏切られた」とは思っていない。私が勝手に「彼女たちなら事情くらい聞いてくれるんじゃないか」と信じていただけだし、そうじゃなかったからといって思うことはただ、「そうか」、だけだった。
 ここでもし私自身が彼女たちとの縁が諦めきれなくて、私の方から連絡を取って事情を説明してわかってもらおうとしたならまた違ったかもしれない。でも私は、そこまでやろうとも思えなかった。いろいろ重なって疲れてしまって、でも気にかけてくれた方からの声は嬉しくてありがたくで、それでいいと思ってしまった。
 もしまた同じようなことが起きたとき、私はきっと頑張れないから。今私の言葉を聞こうとしてくれた人たちを大事にしたいと思った。
 だから信じてショックを受けたことは私の自業自得だし、さらに自分から行動しなかった私自身も悪い。
 他人に対して「裏切った」というレッテルを貼り付けることは傲慢だと思う。「中学生女子か」とツッコミを入れたくなる。(全国の中学生女子の皆様大変申し訳ありません。私が中学時代に感じた既視感を表しただけなんです)相手からしたら、「え? 私裏切ったの?」と思われることもあるだろう。人の気持ちは見えない。「裏切らないでね」という無言の圧力があるとか怖すぎる。何したら裏切りになるのか事細かに表にして教えて欲しい。というかそんな縛りのある付き合いしたくない。(友達だよね? みたいな圧も怖い。友達は友達だし、確認の必要が無いと思っている)
 大人に限らないけど、人付き合いでどちらかを一方的に責められることなんてほとんどないと思うんだよな。(繰り返すけど、結婚とか仕事は別)人それぞれ考え方は違うし、それが食い違ったからと言ってもう付き合えないなんてこともないし。それぞれ譲れないことやプライドがあって、それを貫いたときに相容れない人は出てくるよね。そういうときの選別は決して裏切りなんかじゃないし、そんな稚拙な言葉じゃ片付けられないことも多いんだよ。
 
 だからもし信じてた人がいて裏切られたと感じたなら、それは自分の責任。そもそも相性が悪かったか、自分の見る目が無かったか、自分と相手の大事にしているものが違うとに気付けなかったか、あるいはそれ以外の何にせよ全部自分が招いたこと。それだけ。
 
 ごちゃごちゃ書いたけどまとめると、「信じてた」「裏切られた」を現実世界で聞くとめちゃ冷める~フィクションの世界で物語を盛り上げる要素としてなら、まあ聞いても良いかな~と思ったお話です。おしまい。 

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