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物語食卓の風景・夫婦の時間⑤

 公園を出ると、航二は急に何かを思い出したように立ち止まる。

「真友子、ごめん。おれちょっと買い物があった。先に帰ってて」

「いいよ、今日は暇だし一緒に行くよ」

「いいから、いいから」と言いつつ、もうくるりと振り返って歩き出す航二。その後ろ姿には断固としたものがあって、真友子は言われた通りにすることにした。

「じゃあ、先に帰っておくね。気をつけて」

「おお!」

 帰る道々、真友子はさっきの航二の態度について考えていた。何か怪しい。やっぱり怪しい。美帆さんってサークルの人? いや、サークルには本当にふだんから行っているのかしら? 買い物があるとか言って、実は裏工作しているんじゃないの? 

 でも……と真友子は、ふと気がつく。もしも、明日サークルへ行って、航二がふだんは行っていないと分かったらどうするのか。浮気の決定的証拠を見つけてしまったら? そして、美帆さんに対面することになったら、どうするのか? 自分こそ、怪しんでいること、美帆さんという女性の存在を知っていることがバレないように振る舞えるのか。 動揺して怒り出したり泣き出したりしないのか。 人前でちゃんと普通にしていられるのか。

 もし、サークルでぎこちない振る舞いをしていたときのことを、まず考えよう。そのときにツッコんだほうがいいのか、それとも気がつかないフリをして後で追及したほうがいいのか。

 そうね。ズルズル引き延ばしてもしょうがないから、そのときはやっぱり「何かヘンね」などと言ってみよう。今から明日のことを裏工作したところで、サークルのメンバー全員が航二の作戦に同意して、一緒に演技するとは思えないし、演技するとしても全員がしらを切れるわけではないだろうから、隠したところでボロが出るに決まっている。誰かがもしかしたら、私の味方になってくれるかもしれないし。

 もし、サークルではちゃんとしていたとして、その後の美帆さんとの約束はどうなるのか。あ、もしかして、航二は今、美帆さんとの今週の約束をキャンセルしているとか。確か明日は、用賀のバスク料理店に行く予定だったはず。バスク料理店なんてあるのね。スペイン料理じゃなくて。

 でも、急に明日だけ早く帰ることにしたら、不自然よねえ。あるいは、急にいつもは行かないサークルのアフター、食事会に参加するのも変。というか、今でもサークルの皆さんは、テニスが終わった後に食べに行くのかしら。もしサークルの方々と食事を一緒にすることになったら、そのときにいろいろ皆さんに聞けばわかることもあるかも。一応私も人の話を聞くことにかけてはプロだし、ツッコめば何かわかるかもしれない。どういう風に聞こうかしら。取材の前みたいに、ノートで質問事項をまとめておくといいかもしれない。えーと、あ、今は筆記用具持っていなかった。

 歩調を速めた真友子は、もう周りの景色なんて見ていなかった。見る余裕がなかった。心臓はさっきからバクバク鳴っている。それは速足で歩いているからでは、もちろんない。

 家に帰りつくと、まず冷蔵庫から牛乳を出して一息に飲む。ほーっと息をつく。あ、電気をつけていなかった。東向きのダイニングはすでに暗い。隣の仕事部屋へ行き、ノートを取り出す。いや、ノートじゃなかった、それはいくらなんでも不自然よ。手帳を取り出し、机に向かう。

 えーと。聞きたいことは、いつもは航二は食事に参加しているのか。いつもは、どんなふうに振る舞っているのか。いやこれは漠然とし過ぎている。食事に参加するとして、ふだんはどんな話をすることが多いのか。何を言っているの。美帆さんと毎週食事に行っているのに、参加しているわけないじゃない。いや、だからこそ、皆さんが「参加している」と言うかどうかが大切なんじゃないの。もし、誰かがうっかり「参加しないで帰る」と言った場合、航二にどう質問するのか。いつもは夜、ご飯を外で食べてくるから帰宅が遅いって、私が皆さんに言ってしまうのはどう? そうしたら、皆さんの中に私の味方をしてくれる人が出てくるかもしれない。女性たちは、きっと味方してくれるわよね。たぶん……。そこから一直線に、浮気疑惑の究明に行く? でも、外野が多いと話がややこしくなるわよね。他人の家庭の浮気疑惑なんて、こんなに面白いネタないもの。みんなきっと、好き勝手にいろいろなことを言ったり聞いたりするに違いない。ここは、やっぱり、サークル内での追及は緩めたほうがいいかもしれない。当たり障りのない会話をしながら、もし何かツッコめそうなポイントがあったら、そこをチェックするぐらいに留めたほうがよさそう。

 そうよね。あらかじめ聞くべきことがあって、そのために対面する取材とは同じようにはいかない。話の流れが、どうむくのか、あるいはゆっくり誰かと話す時間があるのかもわからない。練習の合間って、意外に時間がないから、話をしてくれる人がいたとしても、本題に入りそうなところで、その人がまた自分の番が来て練習へ参加してしまったりするかもしれない。

 いくらシミュレーションしたところで、実際の場面にならないと分からないことだらけだわ。とにかく、サークルでは追及を最低限にして、疑惑は二人になってから追及する。これだけは決まった。

 航二はなかなか帰ってこなかった。やがて、夕方になり、真友子は夕食の支度を始めることにした。今夜はタケノコご飯。味噌汁と……あ、出汁を仕込んでおくのを忘れた。まあいいか、煮干しなら直前でも水を火にかければ出汁が出るから。味噌汁は、ワカメとネギと、豆腐は今日ないから、キャベツにしよう。あ、ワカメはやめ。航二が好きなタコとキュウリの酢の物で使うから。ネギとキャベツと、シイタケにする。あと、塩鮭。なんか今日は航二の好物ばっかりね。

 野菜を切っているうちに、次第に心臓の動悸が収まってくるのを真友子は感じた。

 料理をするっていいわね。人生がどうなろうと、何が起ころうと、お腹は空くし、ご飯は毎日食べなきゃいけない。そして、自分の台所があって、ライフラインがちゃんと機能していれば、ちゃんと自分で料理をして食べることができる。食べていれば、何が起こっても何とかなるんじゃないかと思えるのよね。お腹を満たすって重要。そして、そういうものをちゃんとつくれているうちは、きっと大丈夫。

 出汁が沸くと、煮干しを取り出し、そこからティースプーンで一杯分、ボウルへ移す。最近は酢の物に砂糖を入れる人も多いけど、私は砂糖を料理に使うのはあまり好きじゃない。と考えながら、醤油、酢を加えて混ぜる。先ほど輪切りして塩を振っておいたキュウリを絞って入れる。小さいボウルに水を張って入れておいた塩蔵ワカメを取り出し、やはりギュッと絞る。ワカメを刻み、ミョウガを刻み、ボウルへ入れる。タコを取り出して切り、ボウルへ。全部を混ぜ合わせて一度冷蔵庫に入れておく。

 キャベツを切り始めたところへ、ドアが開く音がする。「ただいま」と言いながら、スーパーの白いビニール袋をカシャカシャ言わせながら航二が台所へ入ってくる。「剃刀の刃がもう切れかけていたんだ」とテーブルへ袋を置く。本当に買い物があったんだ。じゃあ、裏工作していると思ったのは違ったのかしら。

 振り向いた真友子に航二が、いやに真面目な顔をして話しかける。

「真友子、明日の夜、空いているか?」

ドキリとする。どうしたんだろう? 「空いてるわよ、もちろん」と答える。ちょっと口調が震えた。バレていないだろうか、私の不自然な態度が。

「よかった。明日、バスク料理を食べにいかないか?」

「え!」どういうこと? どういうつもりなの? 美帆さんとの約束は?

「いや、サークルの練習が終わった後、友達と食事の約束をしてたんだけど、真友子が明日サークルへ来るっていうからさ。せっかくなら一緒に食べたらどうかと思って。バスク料理は好きか?」

「好きかって、私今まで食べたことない。スペイン料理とは違うの?」

「ちょっと違うみたい。俺もくわしくはないんだけど、バスクはスペインとフランスにまたがった地域で、スペインエリアのほうは、スペイン一グルメな都市らしい。だからきっと、うまいぞ」

「わかった。私が行ってもいいの?」

「ああ、さっき電話で友達に確認しておいた。店の予約も1名追加してもらった」

「それで遅くなったの?」

「まあな」

 えー、いきなり美帆さんと対面! というか、浮気相手と妻を会わせるつもりなの? それとも、本当に美帆さんはただの友達なの? 私はどんな態度で会えばいいの? サークルの皆さんとの会話はシミュレーションしたけど、美帆さんとはしていない。というか、どういうところで知り合った人なのかもわからない。そうね、そこから。というか私、本当にどういう態度で接すればいいの? 


 

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