見出し画像

物語食卓の風景・イクメンになりきれない夫⑤

 2日後、勝は急に命じられた仕事が多過ぎて残業になり、帰宅したのは夜11時を過ぎていた。すると、リビングのソファで香奈子がぼんやりしている。一続きになっているダイニング側の照明が消されているので、妙に暗く感じる。ぼんやりと「お帰り」という香奈子。勝はとっさに、急に夕飯がいらないと言ったことを恨んでいるのかと警戒した。そういえば、夕食がいらなくなったことをLINEしたときの反応が遅かった。

「ごめんな、急に遅くなって。ちょっと会社でトラブルがあって、今日中に片づけないといけない仕事が増えたんだよ」

「あ、ううん。それはいいの。前はよく、急に誘われたからって飲みに行ったりもしてたじゃない」

「ああ、でもそれはもうできるだけ断るようにしている」

 勝が急な飲み会に参加しなくなったのは、萌絵が生まれてからだ。子どもが咲良だけだった頃までは、ときどき急な飲み会にも行っていた。もちろん急な残業もこなしていた。それが会社員の務めであり、仕事を円滑に回すためにも、人間関係を良好に保ち、将来につなげるためにも必須のことと心得ていたからだ。もちろん、新婚時代はずいぶんと香奈子もむくれていた。「せっかくご飯作ったのに」と責められることもあった。咲良が生まれてからは仕方ないとあきらめたのか、あまり言わなくなって、安心して仕事優先生活を送り続けた。

 もちろん、香奈子に家のことを任せきりなのはよくないとは思ったが、香奈子が家事育児全般を引き受けることと、自分が仕事して稼いで家族を養うことでフィフティフィフティなのだと思っていた。親父もそうやって働いてきたのだし、母親が大変そうではあっても、母が家事も介護も引き受けているからこそ、父が安心して働いていられるのだと思っていた。でも、香奈子にとってはその考え方は違ったようだ。

「勝はずるい」と、咲良の小さかった頃はよく言われた。娘が生まれて家事が多くなったのに、フォローすることが少なすぎる、何かあれば仕事仕事って逃げると言われた。ゴミ捨てに行ったり、たまに週末に料理をしたり、週末に夕食に連れ出したり、俺なりに家族に尽くしているつもりだった。もちろん、おしめを替えるのは抵抗があったから、あやしているときに急に臭いにおいがしてきたら、「おーい、香奈子!」と呼んで取り換えてもらったりしたから、それを恨んでいるのかと思っていた。

 香奈子が爆発したのは、萌絵が歩けるようになった頃だったと思う。咲良が自分のことを自分でできるようになって、一息ついた頃に香奈子が妊娠。今度はつわりも少なくて楽だなーと思っていたら、萌絵はなかなかカンが強い子で、夜泣きも咲良のときより多かった。夜中に起こされるのは困るので、寝室を別にしたりもしたけれど、残業して帰ったら香奈子があやしているときに出くわしたときは心配になった。でも心配しているだけじゃ、伝わらないんだよな。

「あなたは子どもの世話をしながら家事をやる大変さはわかっていない。娘たちが目が覚ます前に起きて、咲良とあなたと私の分の朝食と、萌絵の離乳食を作って。洗濯機を回して。起きてきたら萌絵に食べさせつつ咲良の様子を見て、学校の準備を手伝って。咲良を送り出してから洗濯物を干して、次の洗い物の洗濯機を回して。萌絵の様子を見て、朝食の片づけをして。部屋中掃除をして。でもすぐに萌絵が散らかすし。萌絵の機嫌をみながら、ベビーカーに乗せて散歩がてら買い物に行って。萌絵があちこち手を伸ばすから、変なものを掴まないか気を付けていないといけないし。ときどき自分で歩きたがるから、それもなだめるか、よちよち歩くのに付き合うか。萌絵の昼食の離乳食を準備して、残り物があればそれを私の昼ご飯にするけど、ないときはもうご飯だけ食べてごまかして。それから掃除機をかけて。そしたらもう咲良が帰ってくるでしょう。子どもの面倒をみて、相手をして、家事をして。1日中、いや、萌絵が泣き出したら24時間、私は休まる暇もないのよ。あなたは仕事が忙しいって言うけど、休憩時間はあるでしょう。通勤の時間だって誰も観ていなくていいわけだし、家に帰ってきたら休めるでしょう。子供が2人もいると、家事は何倍にも増える。離乳食は手間がかかるし、洗濯物は毎日大量に出る。この8キロの洗濯機が、1日2回ですめばいいほうなのよ。ベランダ一杯に洗濯物を干すし、ふとんも干さないといけない。咲良がたまにおねしょするときもまだあるし。それに、子どもがいるときは片時も目が離せない。何をやらかすか分からないし、ヘタをすると、死んじゃうのよ。咲良は道路に突然飛び出したりするかもしれないし、萌絵が頭をぶつけるかもしれないし、食べちゃいけないものを口にするかもしれないのよ。世の中に子どもの事件がいっぱいあるのも気になる。咲良が誘拐されるかもしれないし、うっかり萌絵に目を離したすきに死んじゃうかもしれないのよ。命がけなのよ、子育ては! それなのに何とかつくった夕食を突然いらないって言われたときの徒労感をあなたはわかっているの? 食事作りは簡単じゃないのよ。買い物をしながら、昨夜のご飯と咲良の給食の献立を考えて、今日は暑いか寒いか、冷蔵庫に残っているものと、スーパーの棚に並んでいるものと頭に浮かべながら、何を作るか考える。うまく献立が立たないときは、スーパーの中を何度も往復して。そういうときに、萌絵がぐずり出したらもうそれをなだめるのに精いっぱいになるし。誰にもそういうときに相談もできないし。あなたは本当にわかっているの?『ご飯いらない』の一言が、張り詰めた日々にどんなに打撃を与えるか!」

 香奈子は一気にこれだけしゃべると、わあわあ泣き出した。疲れ果てた顔をしていた。香奈子の言っていることが、そのときの俺にどれだけ分かったかは分からないけれど、家事が大変になっていることと、家事について俺がどれだけ無知かは分かった。「夕食いらない」って突然いうことは、学生時代に母親に対してもよくやっていたし、急に食べると言い出すならともかく、食べないんだから残ったら何とかするだろうぐらいにしか考えてこなかった。確かに、会社でやった仕事を「いらなくなった」と言われたら腹が立つよな。その時間を返せって思うしな。それは料理だって同じことなんだ。きっと。その理解であっているかどうかわからないけれど。

 そういえば香奈子が疲れた顔をしていることは、何となくわかっていた。「無理すんなよ」とは声をかけていたけど、言うだけじゃダメなんだよな。といっても、あの頃は残業も多かったし、仕事のことで頭がいっぱいのことも多くて、香奈子をあまり構ってやれないのは気になっていた。帰ってきたら咲良も寝ているという残念な日は多かったし。ちょっと仕事が忙しすぎるとは思っていたし、つき合いの飲み会が必ずしも楽しかったり収穫があるわけでもないのは、めんどくさいなとは思っていた。だから、香奈子の負担を軽くするためにも、無駄を減らすためにも、職場で、イクメン宣言をして、当分事前予約のない飲み会は行きませんと上司といつものメンバーに理解をもらった。世の中イクメンブームだし、みんなが分かったかは分からないけれど、「おお、イクメンがんばれよ」と案外あっさりと解放してもらえたのはよかった。

 ともかく、残業して帰ってきたら香奈子がぼんやりしているから、あのときにキレた姿を思い出して焦った。そしたら違うみたいなんだ。

「今日、お母さんに会いに行ったの。それで帰ってきていろいろやって、子どもたちをお風呂に入れて寝かせたらホッとしたからか疲れが出ちゃって。話、聞いてくれる?」

「ああ、そうか。今日だったんだな。わかった。ちょっと着替えるから待ってくれるか」

「うん、お茶淹れるね」

 とにかく俺に怒っているんじゃなかったらよかった。話聞くぐらいなら、できそうだし。香奈子が楽になるならいくらでも聞くさ。それでお茶を飲みながら香奈子が話し始めるのを待った。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?