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assertivenessという人生テーマ

 26年前に「女性問題」といわれた社会的課題の概念に出会った。
結婚生活が多面的にうまくいかなくなり、独立抗争の末、母子家庭になることになった間もない頃、仕事を探していて出会った言葉だった。当時の「女性センター」の求人に関心をもって、ひとまずそこの図書室で1冊、それらしきタイトルの『女性問題学習の視点』(伊藤雅子著)を読んだのが始まりで、とてもタイムリーに、自分に起こっていたことが何だったのかが見えるようになり、目から鱗がボロボロと落ちた思いだった。今でこそ一般に聞かれるようになったジェンダーによる女性の生きにくさが、すでに明確に社会の問題としてそこに説明されていた。後で思えば運命の連鎖は始まっていて、その後すぐにフェミニズムの視点で支援を行うフェミニストカウンセリングを学ぶ機会に恵まれた。非正規でしか職がなく、母子家庭するのにお金も時間も心のゆとりも一番なかった時期だったが、正解の道には迷いがないとつくずく思う。派遣の仕事をしながら週末ごとに福岡から熊本に通った。多角的にジェンダーとフェミニズム、カウンセリングについて学んだ1年だった。その後、延長線上にあったアサーティブネス・トレーニングのトレーナー養成を受けた。そもそも、支援やカウンセリングを自身の仕事として考えたことはなかったし、他人様の悩みに関われるような人間ではないと思って生きてきていたので、この出会いからの迷いなき路線選択はやはり運命という気がしている。
 地元で仲間と自主講座を開くようになってまもなく、市町村の主催講座などの講師依頼を受けるようになり、以来現在に至るまでの道のりが続いてきた。フェミニズムに関連する諸問題の様々な仕事を頂いてきたが、量の増減はあるものの、アサーティブネスの仕事はずっと途切れず、私のここまでの半生とともにあった。10年ほど携わった時期、アサーティブネスの仕事だけはとにかく続いていることは、私自身にそれがもっと必要だというメッセージなんだろうと感じていた。
 人々に伝えるたびにより深く考えてきた。トレーニングにおいて1回1回新たな気づきがあった。アサーティブネス=自分も他者も大切にした自己表現・考え方・生き方・・・心底その意味を理解したのは、おそらく20年ほど経った頃のように感じる。私の講座はだんだん、行動療法的トレーニングよりも認知を重視し、自分のとらわれ、特にジェンダーや母性神話、家族神話などのアンコンシャスバイアスの影響を解明しながら、自分が本当に望むこと、どうありたいかに向き合い、そこに向かって行動することを目指す。
 人は自分が主観でとらえている世界しかわかることができないことが多い。誰かと話をすると、“これが真実で正解!”と思っていることのほかに、もっと楽で喜びのある世界があることに気づける。私自身、幼児期後期まで家族以外の人と日常的に過ごすことのなかった環境にいたせいか、対人関連がとても不器用だ。失敗ばかりで臆病になる。人とつながりたいわりに距離を取り過ぎてきた30代までは、自分を表現することもできていなくて、だから当然他者は私を理解するには至らない。深く関わらないためのジレンマも、それとは気づかずいつも抱え、いわゆるありのままの自分で人と関わる良さを知らずにきた。アサーティブネスを人に伝える立場にあって、基本的な良さを実感し、セオリーは正確に理解していたが、もっと深くわかって真にアサーティブに生きることがこの人生には必要だと、私を見守る存在はずっと示してくれていたように感じる。
 今、ここまでは気づいているものの、日常生活で生じる対人葛藤に、しなやかに対応して悩まずにいられてはいないトレーニング中の私だ。(ライフワークにしているわりに、と思われそうだが、良きトレーナーは自身も課題を認識して取り組み続けている者だと思っている。)大切に思う人にほど望みが強くなってしまう困った性分に思案する。「人は人」とは偉大な他者尊重の真理。大切だからこそ、その人のそのままのありようを認めて大切にできるようになりたい。アサーティブネスでは、相手の責任の範疇にあることをコントロールしようとしない。他者が本人の家の庭に何の花を植えようと、それをこちらがあれこれ言うのは越権行為だし、それを思った通りにしたくて行動すれば攻撃的になっているだろう。同時に、誰か、たとえ家族やとても近い関係の人でも、私の庭を「こうすべき!」とあの手この手で強いてくるなら、「NO」が必要だ。相手が誰であってもそんな基本を揺らがず生き方としていられたら、豊かで穏やかな生活になるだろう。

 今日はお盆休みでやっと2稿目が書けた。きっかけは青天の霹靂の一人娘の態度の急変。娘との関係にはずっと悩みがなかった。何でも話してくれたし、気の置けない楽しい仲良し親子だった、と思っている。他県に巣立って10年、この1年くらいは小さく心に距離が生じているような気がしたこともあったが、今回は豹変と言ってふさわしい態度でショックだった。要因は不明。私に思い当たることはなく、こんな悩みは初めて抱えたので甚だ慣れない。ずっと気になって頭が重く、胸が苦しい。アサーティブに考えれば「人は人」、娘も一他者としてクールに尊重し、思い悩まないでいたいところだ。でもね・・・28年続いていた安定した関係が急に崩れるって、そうはいかないものですね。今は、長い間娘にとても愛されていたことを思い、感謝するのが精一杯ではあります。

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