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阪神淡路大震災から生まれた神戸市民のDNA

26年前の私の(軽めの)地震体験

今日は1月17日。この日は神戸を中心としたエリアの人たちには特別な日です。そう、26年前の1995年に阪神淡路大震災が起こった日です。

私は当時、神戸から50Kmほど離れた高砂市(今もその実家の目の前)に住んでいました。2階のベッドで寝ていたら大きなダンプカーが突っ込んでくるような「ごおぉぉぉ~!」って音が向かってきて、飛び起きました。

地震は地面を伝わってくる波ですが、地面が揺れる音は空気中を伝わってくるので音のほうが早いです。飛び起きて覚悟した瞬間にドンって突き上げられました。
本棚の教科書や参考書(当時大学受験でセンターの翌日でした)がバサバサ落ちてきたくらいで大した被害はなかったです。

ただ神戸の被害は皆さんも知っているところ。僕は受験生だったので高砂から大阪大学の受験のために(日帰りで行ける距離だが)、JRが不通だったので3日くらい前から出発し前入りしていました。確か日本海側の福知山廻りで大阪入りしました。大阪で繁華街のホテルに泊まったのが悪かったのか、落ちました・・・。

神戸市職員としてのDNA

震災から6年たった2001年に神戸市役所に入庁します。震災があったから神戸市を就職先に選んだわけではないです。それはまた別で語ります。
土木職で入ったので復興事業には関わりました。関わっていくなかで、自分の中にも神戸市民と同じ被災し・復興したDNAみたいなものが備わってきます。災害の悲惨さ、防災の大切さを追体験する感じでしょうか。

被災したというネガティブなDNAではなく、こんなに凄惨な災害であったにも関わらず市民がみんなで乗り越えた街という「誇り」と、たくさんの市外・県外・国外の人に助けてもらった「感謝」のDNAが備わってきます。

それを実感したのが2011年3月11日の東日本大震災が起こった時です。
当時は道路維持管理を行う西部建設事務所に所属していました。現場の舞台です。発災時はたまたま休みを取っていたのですが、直後に事務所の所長から電話があります。

「明日から現場にいってほしい」

「もちろん行きます!」

なんの躊躇もありませんでした。
ただし結果として(ちょっと面倒なので割愛しますが)労組問題があり、翌日出発の部隊には入れませんでした。今でも悔しい思いはあります。

その後、2か月ほどたって被災地復旧支援のための部隊が作られます。その時所長から「現地に行っても良いという人はいますか」という問いに、建設事務所のほぼ全員が手を挙げたことに感動したことを覚えています。

これって神戸のもつDNAかもしれないなと思います。
このDNAは神戸市職員だけが持っているのではなく、神戸市民がみんな持っているものだなと思います。神戸市民だけでもないだろうけど。

ちなみに、この後、短い期間ですが仙台市に派遣され、震災復旧の災害査定のお手伝いをさせていただきました。とても貴重な経験でした。

神戸市民のもつDNAを表したものが「BE KOBE」

「BE KOBE」は、阪神淡路大震災から20年経って生まれた、「神戸の魅力は人である」という思いを集約したシビックプライドのメッセージです。新しいことに挑もうとする人や気持ちを愛する、そんな神戸を誇りに思うメッセージとして広めています。

全国各地で災害があるたびに、神戸市民は気合が入ります。
もちろん最初は心を痛め、現地の被災者に思いを馳せることから、
そしてそこから動き始めます。

僕も(神戸市民ではないけど)神戸市職員として神戸のDNAを持って、これからも災害に対し、みんなのために動ける人でありたいと思います。

文章がちょっと熱いのは1.17のせいです(笑)

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