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イエスと共に見るとはどういうことなのか?なぜイエスと共に見るのか?


価値判断なしに見る、あるがままに見る

コース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践では、自我を咎めずに見るということをしていきます。

「咎めずに」という意味は、価値判断(ジャッジメント)なしに、ということです。

それは、目の前に映るものをあるがままに、目の前で起こっていることを起こるがままに見ている状態だといえます。

そのとき、平安と共に見ることができます。

それをコースでは、「イエスと共に見る」「聖霊と共に見る」という言い方をしています。

ただし、そのように価値判断なしに見ることのできる視点とは、世界の夢の外側であり、つまり、自分は心(夢見ている者)であると自覚した視点であり、私たちはその視点がどこにあるのかまったく忘れた状態になっていると言うことができます。

つまり、その視点以外には価値判断なしに見ることはできないということです。

「自分はこの世界に居る」「自分と他者は別々に存在している」としながら、価値判断(ジャッジメント)なしにあるがままに見ることなどあり得ないということです。

では、

「価値判断(ジャッジメント)なしに見る」とは、どういうものか?

というなら、

自分が知覚しているものすべてが一様に虚偽(幻想/非実在)であると理解しているところから見るということです。

すべてが全一に虚偽’(幻想)として見えているなら、一つ一つを価値判断(ジャッジメント)する必要があるでしょうか。

イエス、聖霊はその視点から、そのように見ているということです。

ですから、コースの学習者である私たちはそういうことをまず形而上学上で知的に理解しておく必要があります。

それというのも、コースを実践しているつもりでいながら、実際は「イエス(聖霊)と共に見る」ということについてまったく曲解してしまって、誤った実践をしているケースがよくあるからです。

ですから、今回は、

イエス(聖霊)と共に見るとはどういうことなのか?

そして、

なぜイエス(聖霊)と共に見るのか?

ということについてさらに詳しく述べようと思います。


「イエスと共に見る」とは?

コースの実践における「イエス(聖霊)と共に見る」とはどういうことなのか?

というなら、

単純に言えば、コースの思考体系を携えて、つまりコースの思考体系に基づいたところから自我(の思考体系)を見る、ということです。


”私たちには、自我の思考体系をもっと詳しく見る準備ができている。なぜなら、私たちが共に居れば、それを一掃できるランプがあるからである。そして、あなた自身も自分はそれを望まないと気づいているので、準備ができているはずである。”(T-11.V.1:3)

奇跡講座/中央アート出版社


というのも、コースの思考体系そのものが「聖霊(正しい心/正気)の思考体系」から述べられたものであるわけです。

ですから、コースの思考体系(コース形而上学)が自我の思考体系を「一掃できるランプ」であるわけです。

ならば、当然、コースの思考体系(形而上学)を学んでいくこと、そして理解していくこと、さらには修得してくことが必須であることが分かるはずです。

コースを学んでいる学習者であるならばそれは当然なことであり、それがコース学習者に求められていることなのだということをしっかり心に留めておきましょう。


「イエスと共に見る」には、どういうことをしていけばいいのか?

コースの実践の中で私たちは何をしていくのか?

ということについていえば、コース学習者の私たちは、「イエスと共に見る」「イエスを教師とする」ということを言葉上で学ぶわけです。

では、「イエスと共に見る」というコースの実践は、どういうことをしていくのでしょう?

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