見出し画像

「奇跡」はなぜ時間の短縮になるのか?


すべてを知る者から探究者となってしまった私たち

本来は、私たちは「一なるものとしてつながっている一体性(ワンネス)」(T-25.Ⅰ.7:1)であるわけです。

それを、「神」あるいは、「神の国」「天国」と呼んだりしています。

あるいは、「智識」と呼んでいます。

つまり、私たちは本来、智識そのものであるということです。

智識とは、すなわち、すべてを知っている状態を言います。

本来の私たちはそうであるにもかかわらず、私たちはどうなってしまっているかというなら、「探究者」になってしまったということです。

それはどういうことなのか?

というなら、

真理とは?非二元とは?神とは?愛とは?智識とは?

そのことについて、私たちは「忘れてしまった」ということです。

忘れてしまったがゆえに、私たちはその忘れてしまったものを探して、今や探究者になってしまっているわけです。

その忘れてしまったものとは、まさに、自分とは何者か?についてです。

今やそうなってしまっている私たちは何をしているか?というなら、

自分とは何者か?

という疑問に対する答えとして、自分自身に「自分は人間である、自分はこの肉体である」と常に嘘を教え込むことをしているといえます。

とはいえ、嘘が真理になり得ることはけっしてありません。

「自分は人間である、自分は肉体である」と嘘を信じているかぎり、私たちは平安でいられることがありません。

嘘を信じたままでどうして平安でいられることなどできるでしょうか。

それが、この世界にいる私たちの状態だといえます。

それゆえに、平安を求めて、幸せを求めて、私たちは「探究する者」となってしまっているわけです。

知っている状態から無知なる状態になってしまったのです。

今や探究者となってしまった私たちは、その探究欲求にかられて、その矛先はスピリチュアルや宗教へと向かうことになるわけです。

その探究は、あっちのスピリチュアリティ、こっちのスピリチュアリティ、、、といった具合に飽くなき探究の旅はまるで終わることがありません。

探せよ、求めよ、されど見つけることなかれ。

それが、スピリチュアルの探究の名のもとに、今まさに私たちがしていることだといえましょう。


そもそもの嘘がはじまった場所に戻ること

この飽くなき探究の旅を終わるには、どうすればいいのか?

私たちは、この探究がはじまった場所に戻るほかありません。

コースは、その場所へどのようにしたら戻れるのか?私たちにその道を教えてくれている霊性の道だと言うことができます。

そして、コースは、そのための実践的な手段を「赦し」と呼んでいるということです。

その「赦し」とはいったいどういうものなのか?

その実践は、まさに、探究している者(自分)こそが偽りの自分である、ということを受け入れていく作業であると言うことができるでしょう。

というのも、

「神の子が探究者になってしまった」というストーリーそのものが単なる神話(嘘)でしかなかったということを認めて、受け入れていくというものであるからです。

つまり、私たちはそもそもの嘘がはじまった場所に戻ることが求められているということです。

言い換えるならば、その真の原因に戻るならば、「そもそもがはじめから何も起きていなかった」と思い出すことが可能となるということです。

それこそが、この終わりなき時間(時空)の旅を終わらせる方法です。

ちなみに、

ノンデュアリティや悟りのスピリチュアリティで実践されているような「いまここの平安にくつろぐ」ことをしていっても、この時間の旅が終わるわけではないということです。

ノンデュアリティのスピリチュアリストの多くが「いまここ」にくつろいでいればいいというようなことを語っています。

それが間違っているというわけではありませんが、それでは何千年何万年の膨大な時間を要することになる、とコースでは教えてくれています。

私たちは原因に戻っていかなければならないということです。

その原因とは、そもそもの嘘がはじまった場所であり、探究がはじまった場所、つまり、時間がはじまった場所です。

そこに戻っていかないかぎり、そこではじまった嘘が訂正されることはないということです。

私たちの無意識に隠している嘘を明らかにしていくことがないかぎり、嘘のストーリーは実在化したまま、夢から目覚めることを先延ばしにするために何かしらの探究をすることになるだけです。

ですから、もはや時間というストーリーの中に入り込んでいる私たちは、ストーリーを終わらせるためにすべきことがあるということです。

時間のストーリーの夢を見続けている間、私たちがしていかなければならないものが、原因における誤りの訂正であり、嘘の取り消しというものです。

コースでは、それを「赦し」「奇跡」と呼んでいるということです。


時間の短縮

私たちはコースの実践を通して、「時間のはじまった場所」へと戻っていくことをしていくわけですが、その場所は同時に、「時間の終わりの場所」でもあるわけです。

つまり、はじまりも終わりもない、「いまここ」と呼ばれているところへと戻っていく訓練をしていくということです。

そこは、リニアな時間を超えた「時間のない領域」です。

じつのところ、本当の私たちはずっとその場所に居るのであり、そこからこの時空の夢を見ているだけなのです。

コースの「赦し」の実践は、そのことを思い出していくための手段であると言うことができます。

時間を超えていくことをしていくわけですから、そういう意味で、コースは時間の短縮の道であるというふうにも呼ばれています。


”奇跡は時間の必要性を最小限にする。”(T-1.Ⅱ.6:1)

”奇跡は何千年もかかったかもしれない学びに代わるものとなる。”(T-1.Ⅱ.6:7)

”奇跡は時間を崩壊させ、その中の特定の時間枠を取り除くことによって時間を短縮する。”(T-1.Ⅱ.6:9 )

奇跡講座/中央アート出版社


私たちはどのようにして時間のはじまった場所に戻っていくのでしょう?

その場所に戻っていくためには、

どのようにして私たちは「すべてを知る者」から「探究する者」となってしまったのか?

そのプロセスについて、私たちはコース形而上学を学び、そして理解する必要があるということです。

コース(奇跡のコース/奇跡講座)の教えを理解していくならば、そのプロセスを知ることができます。

そして、それを知ることが時間の短縮になるのだということです。

実際には、そのプロセスを逆に遡っていくことが私たちがしていくことであり、その手段が(何度も言いますが)「赦し」あるいは「奇跡」というものです。

辿ってきた道を帰る以外、どこにわが家への帰り道があるというのでしょう?

コースは、その道を教えてくれている霊性の道だといえましょう。

しかも、ワプニック博士の教材で学ぶなら、その帰り方の具体的な方法を私たちは学ぶことができるのです。

ですから、あなたが、自分が誰なのか?自分とは何者なのか?を本気で思い出したいのであるならば、コースを学ばないわけがないというものです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?