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自分の狂気さ、愚かさ、無知さを自覚することなしに、正気に至ることはけっしてあり得ない


霊的探究に潜む罠

自我は、ニセの「霊的成長」「霊的向上」が大好きです。

いつも何かになろうとして、ここじゃないどこかに向かおうとする習性があります。

ただ在る、ということができないのです。

自我とはそういうものです、

そして、私たちは、今やまさにその状態になっています。

自分とは何者なのか?
自分はどこにいるのか?
何をしているのか?

そのことをまったく忘れてしまっています。

そして、何をしているのかというなら、それらの未解決なままの答えを埋めるために、私たちは自分探しをしているといえます。

もっといえば、それをスピリチュアルと名付けて、霊的に成長している、霊的に向上しているつもりでいるのです。

ただし、その自分がどこまでも成長していったとしても、どこまでも向上していったとしても、どこまでも波動を上げていったとしても、どこにもたどり着くことはありません。

ようするに、自分が何者であるか?を忘れてしまったがために、私たちは本当の自分(真の自己)を探すべく、どこにもたどり着くのことのないスピリチュアルな探究の旅をしているということです。

それが自我のしていることであり、私たちはその自我になってしまっているのです。

その探究が、「求めよ、されど見つけることなかれ」という終わりのない探究であることにまったく気づいてすらいません。

ちなみに、霊的探究真理探究が愚かなことだと述べているのではありません。

「スピリチュアル」と呼ばれているその探究が、実際は何をしているのか?をしっかり認識する必要があるということです。

というのも、私たちはスピリチュアルの探究の名のもとに、答えのないところに向かって探究をし続けることをしているからです。

それがいけないということではなく、そのことを認識すべきだということです。

自我は、ニセの「霊的成長」「霊的向上」が大好きです。

「探せよ、されど見つけることなかれ」

というスピリチュアルな旅が大好きなのです。

実際のところ、私たちは霊的探究、真理探究をしているつもりでいながら、スピリチュアルという名のもとにその概念を弄んでいるのがほとんどです。

霊的探究、真理探究、スピリチュアル探究にはそういう罠が潜んでいるということに私たちは警戒しなければなりません。

そういった自我の罠に気づけるようになることは大事です。

そのためにも、私たちは自我についてしっかりと理解する必要があるといえます。

そして、コース(奇跡のコース/奇跡講座)は、そういうことについて詳しく教えてくれているスピリチュアリティ(霊性の道)であるということを知っておくとよいでしょう。


狂気から正気へ移行していくために

コースの観点からいえば、「霊的成長」とは、狂気の思考体系から正気の思考体系への移行であると言うことができます。

それを、コースでは「自我の思考体系から聖霊の思考体系へのシフト」と呼んでいます。

そのために、まず私たちに求められているのは、自分が今や自我の思考体系と同一化しているとういうことの自覚です。

それが何を意味するのかというなら、自分はもはや狂っている(狂気である)ということです。

つまり、「自分は狂気で何も分かっていない」ということの自覚が、私たちにとって、まず、求められているということです。

というのも、それが自覚されるようになってようやく、霊的成長の必要性を認識するようになるからです。

私たちは、今すでに自我の思考体系と同一化してしまっていることにすら気づいていません。

しかも、それが狂気の思考体系であるということ、つまり、自分を傷つける思考体系であるということがまった分かっていません。

むしろ、自分はまともな人間で、自分が見ているものや自分が考えていることは正しくて、自分は分かっているとさえ思っています。

私たちは、自分の狂気さに、まったく気づいていないのです。

そう、この世界の私たちは誰もが皆、その状態にあるのです。

コースでは、そのことを「罪悪感による狂った者たち」(T-13,In.2:2)というふうに表現しています。

そのような狂った者が、どうやって真の幸せへと至る方法を知っているというのでしょう。

もっといえば、どうやったら正気に戻れるというのでしょう。


”私は自分の最善の利益を知覚していない。”(W-pI.24)

奇跡講座/中央アート出版社


狂ってしまっている者が、どうやって正気へと至るのか?

というなら、まずは自分がいかに狂っているかを認識することからはじまるということです。

そうなってはじめて、本当の霊性の道は開かれるといえます。

つまり、そうなってようやく、私たちは霊的に成長していくことが可能となるということです。

コース学習のプロセスで言うならば、そこからが真の学びのはじまりであるということです。

言い換えるなら、自分の狂気さ、愚かさ、無知さを自覚することなしに、正気に至ることはけっしてあり得ないと言うこともできるでしょう。


「奇跡」という方法で正気に戻っていく

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