コースを学ぶ必要があるのか?
私たちがコースを学ぶ必要がある理由
コース(奇跡のコース/奇跡講座)とは、どんなスピリチュアリティ(霊性の道)なのか?
コースでしていることとは、どういうものなのか?
というなら、
コースで目標としているのは、自我の思考体系から聖霊の思考体系への完全なるシフトなのだということです。
言い換えるならば、二元的思考体系から一元的思考体系へのシフトを目指しているとも言えます。
つまり、二元性の世界に居ながらも、一元的思考体系(聖霊の思考体系)からすべてを見ることができるようになることが目的なわけです。
それをコースでは、真の知覚の修得という言い方をします。
そしてそれを達成することを、コースでは「贖罪」と呼んでいます。
非二元の教えからいえば、コースは、「悟りの境地」を完全に修得(マスター)することを目的としているということです。
そう、コース学習者の私たちは、そのために一元的思考体系(正しい心の思考体系)を学んで、そしてそれを修得していくための訓練をしているのだということです。
なぜ、その必要があるのか?というなら、この世界に居る私たちはその「正しい心(聖霊)の思考体系」、そして「真の知覚」というものを忘れてしまっているからです。
つまり、私たちはコースを通して、忘れてしまったものを思い出すことをしている、ということです。
そのために、私たちはコースを学ぶ必要があるわけです。
(ちなみに、コースだけが唯一の非二元の霊性の道ではないので、コース学習者であるのならば、という前提で述べています。)
もっといえば、
「私たちはコースを学ぶ必要がある」ということが、どういうことなのか?
というならば、
私たちは今や、聖霊の思考体系(一元的思考)というものをすっかり忘れてしまって、自我の思考体系(二元的思考体系)と同一化した状態になっているということです。
私たちは、もはや何が自分に幸せをもたらすのか、何が自分にとって最善なのか、まったくわからない狂気の思考体系の状態にあるということです。
ただし、私たちはまったくそのことを自覚していません。
コースが教えていることを真に理解するようになるまでは、そのことになかなか気づくことができないのです。
でも、コースの思考体系が理解されるようになるならば、ようやく自分たちが狂気の思考体系と同一化してしまっていることが自覚できるようになります。
いわば、そこからが本格的なコースの学びと訓練のはじまりだといえましょう。
玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥がしていくように
上記で述べていることからも分かるように、コースの思考体系が理解されるようになってはじめて、私たちは自分たちが自我の思考体系と同一化してしまっていることがはっきりと自覚できるようになるということです。
言い換えるならば、コースの思考体系が理解されないかぎり、私たちは自分の狂気さと愚かさに無自覚なまま生きることになると言うことができましょう。
だからこそ、コースの教えをしっかり学んで、その思考体系を理解していくことは不可欠なのだということです。
そう、まず私たちは自我と同一化した状態からコース(奇跡のコース/奇跡講座)を学びはじめるということです。
ですが、私もそうだったように、まず最初の段階では、ほとんどの学習者たちが「自分はまとも、自分は正気、もっと言えば、コースを学んでいる自分は神聖だ」とさえ思っています。
そして、コースが教えていることの理解が深まっていくにつれて、自分の愚かさ、狂気さを認識していくようになるわけです。
それは、まるで自己概念の仮面が剥がれ落ちていくような経験となります。
それは、まさに玉ねぎの薄皮を一枚一枚剥がしていくようなプロセスに喩えることができます。
玉ねぎの皮を剥ぎ取っていったとき、最後には玉ねぎの芯にたどり着くと思いきや、芯すらなかったとなるわけです。
自己概念の仮面を剥がしていったなら、「真の自己」「真我」にたどり着けると思いきや、むしろ、「自分」などいない、ということを認識するようになっていくのです。
コースの学びのプロセスはそのようなものだと知っておくと良いでしょう。
自分だと思っている「自分」などいない、ということを受け入れていくことになるということです。
「自分はいない」とはどういうことか?
というなら、「すべては一つ」「全一である」ということです。
真理から見るならば、当然、分離の想念である個別性、特別性といったものなどありません。
個人性も、個という概念も無いのです。
すべてが「全一性(ワンネス)」としてあるだけで、その別の言い方として「自分はいない」という表現をするわけです。
ですから、コースの実践を通して理解されてくるのは、「個別の自分など存在せず、全一なる自分がいるだけ」というものになります。
そして、コースの日々の実践では、そのように見ていく訓練をしていきます。
「すべては全一に同じ」として見ていくということです。
つまり、別々の利害ではなく、共通の利害を見ていくということです。
それは、個の自分の無意味性、非実在性、無価値性を受け入れていく訓練なのだと言うことができます。
その訓練によって次第に、私たちがこれまですっかり忘れていた一なる自己(真のアイデンティティー)が思い出されていくようになります。
そう、私たちは、一なる自己である真のアイデンティティーを思い出していくことが、私たちがコースの実践の目標としているものだということを覚えておきましょう。
自我を選んでいるその代償も認識していくこと
私たちは、真理は「一なる自己(ワンネス)」であるにもかかわらず、自分が何者なのか?も、そしてその自分が今どんな状態にあるのか?も、まったく分かっていません。
今やすっかり自分の本性を忘れてしまって、偽りの自分(自己概念)と同一化しているわけですが、そのことにまったく自覚がありません。
それだけでなく、その代償としてどういうものが自分にもたらされているのか?も、まったく認識していないと言うことができます。
ようするに、私たちはすでに自我の思考体系(二元的思考体系)と同一化していることも、しかも、それが狂気の思考体系であるということもまったく分かってないのです。
ですから、まず、私たちは、コースを通して自我の思考体系というものがいかに狂っているか!を学ぶ必要があるわけです。
そして、コースは、
一元的思考(一元的知覚)というものがどんなものなのか?
というその対照性を私たちに示すことで、その違いを認識させようとしてくれていると言うことができます。
つまり、一元的思考を学ぶことによって、今や自分たちはそうじゃない二元的思考にとらわれているということを認識させようとしているということです。
そう、コースが教えていることを理解するようになるならば、自分が自我の思考体系(二元的思考)と同一化していることが自覚/認識できるようになるということです。
そのことを自覚するまでの私たちは、あまりにも当たり前に自我の思考体系に馴染んでしまっているので、そのことに気づくことができません。
つまり、コースの思考体系(形而上学)を理解していくにしたがって、私たちは自我の思考体系と同一化していることが認識できるようになりますし、その自我の思考体系がいかに狂気の思考体系であるか!ということも認識するようになるということです。
さらには、自我の思考体系と同一化したままでは、平安、幸せ、喜びなど絶対にあり得ないということも分かってきますし、自我の思考体系は、苦痛、苦しみ、死、破壊といったものしかもたらさないということも明らかになっていきます。
そのようにして、自我の思考体系と同一化したままであるならば甚大なる代償を支払うことになるのだということを真に理解するとき、ようやく自我の思考体系から脱却していこうというモチベーションが高まることになるといえましょう。
その状態をもはやOKとはしなくなるということです。
それというのも、自我の思考体系と聖霊の思考体系の両方を同じ祭壇に持ってきて見比べるなら、自我か?聖霊か?その選択が難しいことなどあり得るでしょうか。
それが認識できていないからこそ、私たちは、自我を選んでいることに寛容でいられるのだということです。
その認識(自覚)こそが、自我の思考体系から聖霊の思考体系へとシフトしていくモチベーション(動機付け)となって、学びと実践がもっともっと徹底したものになっていくということです。
ですから、まずは、自我を選んでいることを認識していくこと、そして、その代償も認識していくことです。
それがとても重要です。
私たちは何も分かっていない状態だからこそ、コースを通して学ぶ必要があるということです。
要約するなら、
私たちは、このコースを通して、何を学んでいるのか?
というならば、
何が自分に平安、幸せをもたらし、何が自分に苦痛、苦しみをもたらすのか?その識別ができるようになるためにコースを学んでいるというふうにも言うことができましょう。
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