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自我はどうしたってどうなったとしても自我であることに変わりありません

自分と思っている「自分」について

私たちがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学びはじめるとき、この個人の自分がコースを学んでいると思っています。

ただし、コースの学びが深まっていくある段階において、自分だと思っている「自分」は自我(間違った心)であることを自覚/認識するようになります。

つまり、自分だと思っているその「自分」こそ、本当は実在していない、嘘、ニセモノだと分かってくるということです。

私たちは、その「自分」を自分だと信じ込んでいるわけです。

それは、私たちは今や自我になりきってしまっていることを意味します。

コースの学びが深まっていくにつれて、そのことがますます自覚されていくことになります。

そして、そのことを理解するとき、その「自分」をいくら改善、矯正しようとしたところで無意味なのだということも分かってきます。

それというのも、幻想(ニセモノ)である自分をいくら改善、向上させたところでどうなるというのでしょう。

自我は、どうしたって自我であることに変わりないのですから。

もっといえば、実在しないものは、どうしたとしても実在しないわけです。

私たちは、つい、他のスピリチュアル(霊性の道)と同じように「自分を高めていく、自分をより素晴らしく、自分がより崇高な、清らかな、神聖なる存在になっていく」ということをコースの実践においてもやってしまいがちです。

これまで携わってきたスピリチュアリティではそうであったかもしれません。

なので、私たちはコースもそのようなものとして解釈してしまうわけです。

ですが、コースの学習者の私たちが理解しなければならないのは、コースはまったくそういう道ではないということです。

コースが教えていることを理解するようになるならば、コースはそれらとはまったくちがうものだということが理解されることになります。

自分と思っている「自分」は自我なわけで、その自我がどんなに霊的に崇高になろうとしても、どう変わっていったとしても自我のままでしかないということです。

どこまでいっても実在していない、嘘、ニセモノでしかありません。

その「自分」こそが嘘(自我/幻想)なわけで、ようするに、コースはその「自分」を霊的に高めていくような道ではないということです。

私たちが学ばなければならないのは、コースの実践は、個人の性格や行動を修正して変えようとしていくようなものとはまったくちがうということです。

では、コースの実践で何をしていくのか?というと、自分は自我(幻想)であることを認識して、その自分(自我)を咎めずに見ていく(観察する)ことをしていくのだということです。

自分をどうにかしようとするなら、それは、自分(自我)は実在していることをより堅固にしていくことになります。

一方、自我を咎めずに見ることをしていくならば、自我はそのパワー(堅固さ)を失っていくと共に、観察者のほうが真のアイデンティティーだということが思い出されていくことになります。

そういうことを体験的に理解していくとき、自分はこれまでどれほど自我にパワーを与えて(投入して)いたか!が分かります。

何度も申しますが、自分と思っている「自分」は、どうしたってどうなったとしても自我(幻想)です。

コースでは、「自分」を「世界」に置き換えて、こう述べています。


だから、世界を変えようとするのはやめなさい。そうではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。(T-21.In.1:7)

奇跡講座/中央アート出版社


「世界」を「自分」に置き換えるなら、自分を変えようとするのはやめなさい!ということです。

つまり、「自分」とは夢の産物(自分像/イメージ)でしかないからです。

その「自分」を変えようとすることは、幻想を変えようとしている試みにしかすぎないということです。

何度も申しますが、私たちがコースの実践でしていくことは、自分だと思っている自分(自我)を変えようするのではなく、その自分(自我)をただ咎めずに見ることをしていくということです。

それが、赦しは何もしない、ということの意味です。


赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。、、、ただ見て、待つのみであり、判断はしない。(W-pII.1.4:1,3)

奇跡講座/中央アート出版社


ただ見るだけで何もしない。

自分と思っている「自分」について、ただそのように見ていくのです。

それは、気づく、自覚する、認識する、観察する、というふうに言い換えられます。

そして、それをどこの視座から見ているか?も、とても重要です。

「咎めずに見る」とは、すなはち、聖霊と共に、聖霊の視座(赦しの視点)から見るということを意味します。

そこから見ている知覚が、聖霊のヴィジョンというものです。

その聖霊の視点(ヴィジョン)を修得していくために、私たちはコースを学び、そして実践しているのだということです。

私たちは、正しい見方であるその聖霊のヴィジョンというものをすっかり忘れてしまっています。

そう、コース学習者の私たちはその知覚(真の知覚)を思い出すことを目標としているのです。

そして、そのためにはコースの思考体系(形而上学)を根付かせていかなければなりませんし、それは実践(訓練)を通してのみ修得されていくものであるということです。


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