「奇跡」によってもたらされる知覚とはどのようなものなのか
「奇跡に難しさの序列はない」について
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の中で奇跡の第一原理として示されている概念が、「奇跡に難しさの序列はない」というものです。
この概念は、コースを実践していくうえで、もっとも理解しておくべき重要な考え方です。
というよりも、私たちがこの世界の夢から自由になっていくために必ず修得しなければならない考え方であるということを知っておきましょう。
むしろ、その修得なくして、イエス、聖霊との同一化は絶対にあり得ないし、この世界の夢から目覚めることもあり得ないということです。
では、「奇跡に難しさの序列はない」とは、どういう意味なのか?
というなら、知覚しているすべてのものやすべてのことを「等しく同じ」として見るということです。
ようするに、すべてを同一(同じ)として見るということです。
なぜなら、そのすべてがどれも等しく幻想であるなら、当然、そのような見方をしていく必要があるわけです。
どのようにして、すべてを同一(同じ)として見るのか?
というなら、それは赦し(聖霊)の視点から見ること以外には絶対に不可能だということです。
ゆえに、肉体の自分から心の自分へ、その視座(視点)をシフトしていく必要があります。
いわゆる、それを、知覚のシフト、あるいは、アイデンティティーのシフトと呼ぶわけですが、つまりは、肉体の自分から心の自分へとアイデンティティーをシフトしていく必要があります。
言い換えるなら、その視点へとアイデンティティーをシフトしないかぎり、この世界に序列(差異、相違、ちがい)を見てしまうことは免れないということです。
とはいえ、今や私たちは自我と同一化した状態になっていて、肉体(人間)である自分をアイデンティティーにしてしまっています。
それによって、聖霊の視点をすっかり忘れてしまって、その視点がどこにあるのか?がまったく分からなくなっています。
しかも、自分がそうなってしまっていることにすら自覚していない状態になっています。
いわゆる、コースではそれを「心を忘れた状態」という言い方をします。
まさに私たちは、自分とは何か?をまったく忘れた状態になっているということです。
その自分を思い出していく(自覚していく)ために、「赦し」という実践をしていくのだということを覚えておきましょう。
序列をつけない、何一つ除外しない
この世界にはたくさんの問題があるかのように見えます。
人生を生きていくならば、まるで、次から次へと解決すべき問題と遭遇していくことは避けられないといえます。
ただし、コースの観点から見るならば、この世界で経験しているすべての問題の原因は一つしかありません。
その原因は、「心」である自分が自我(の思考体系)を信じる決断をしたことにあるわけです。
それゆえ、コースの実践においては、問題の真の原因である「心」(の決断の主体)に立ち返ることをしていきます。
そのための手段を、コースでは「赦し」と呼んでいるわけです。
「赦し」は、たとえそれが大ごとなことであろうが些細なことであろうが、動揺したならば、いつのときもたった一つの真の原因があるところに戻っていくことをしていきます。
それがどんなことであろうと、そこに序列をつけない、何一つ除外しないわけで、それが、すべてを同じ(同一)として見る、ということの訓練になるのだということです。
私たちは「原初の誤り」へ立ち返っていくことによって、自分は「心」であることを自覚するようになっていきます。
さらには、肉眼で見ているものを超えて、聖霊の視点(真の知覚/心眼/ヴィジョン)で見ることを選択することができるようになります。
それが、「奇跡」と呼ばれるものです。
ようするに、私たちは「奇跡」という手法で、真のアイデンティティーと真の知覚を思い出していくことをしていくのだということです。
真の知覚(ヴィジョン)とは、すべてを全一に等しく虚偽として見ている知覚の仕方であり、実相であるワンネスをこの幻想世界に反映した知覚の仕方だと言うことができます。
それは「奇跡」によってもたらされるものであり、その「奇跡」を通して、コース学習者の私たちはこの世界の夢から目覚めようとしているのだということを覚えておきましょう。
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