「自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直す」という実践について
なぜ私たちは聖霊の教師が必要なのか?
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えが理解されるようになるにつれて、自分はすでに自我と同一化してしまっていることが認識されるようになるといえます。
ようするに、自分は自我になってしまっていることを自覚するようになるということです。
そして、自分は自我であるということだけでなく、その自分(自我の思考体系と同一化している自分)の狂気性も認識するようになります。
その狂気性とはどんなものか?
というなら、
その「私」=自我は、平安をまったく望んでなどいない、ということです。
むしろ、その「私」は、卑小さ、脆弱さ、惨めさ、といったものを好んでいて、罪、罪悪感、恐れを伴う自我の教師のほうをいつも選択していることが自覚/認識されます。
その「私」=自我は、神のもとに帰ろう、わが家に帰ろうとはこれっぽっちも望んでなどいなくて、真理(の光)には触れたくないのです。
というのも、真理を前にするならば、その「私」というものは消滅するわけで、その「私」はそうなることをひどく恐れているのです。
自分の内側に正直になって観察するならば、そういう「私」を自覚/認識するようになるだけでなく、その「私」は真理とはまったく相反するものだと分かるようになります。
ようするに、私たちが理解しなければならないのは、その「私」とはまさに自我であり、つまりは、その「私」は非実在なのだということです。
そのことを理解するようになるとき、ようやく、自分は間違っているということが受け入れられるようになるだけでなく、この「私」は何も解決することなどできないということが受け入られるようになります。
つまり、自我である「私」を超越した存在(それを「聖霊」と呼んでいます)が自分には必要なのだと理解するようになるということです。
そのとき、「私」は何もする必要がなく、一歩下がるということの意味をはじめて理解することになります。
そういうことが理解されていくにしたがって、私たちは、聖霊/イエスを自分の教師として選び直すことを望むようになり、その実践がはじまることになります。
聖霊/イエスを教師とするとは、つまりは、自我を教師とするのをやめるということです。
そうすることが、「聖霊の教師を招待する」ということであり、それが「聖霊を教師として選び直す」という実践なのだということです。
そう、それが私たちに求められていることであり、そして、それが私たちがしていかなければならないことなのだということを肝に銘じて、学びと実践に励んでいきましょう。
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