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自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直す

自分に与えられた唯一の機能

コース(奇跡のコース/奇跡講座)の教えを理解するようになると、自分がすでに自我と同一化してしまっていることが認識できるようになっていきます。

ようするに、自分は自我になってしまっていることを自覚するようになるということです。

そして、自分は自我であるということだけでなく、その自分(自我の思考体系と同一化している自分)の狂気性も認識するようになります。

その自分を観察するならば、その「私」=自我は、神のもとに帰りたい、わが家に帰ろうとはこれっぽっちも望んでなどいないことが分かります。

その「私」=自我は、平安をまったく望んではいません。

むしろ、その「私」は、卑小さ、漸弱さ、惨めさ、といったものを好んでいます。

その「私」は、罪、罪悪感、恐れを伴う自我の教師のほうをいつも選択しているのが分かります。

つまるところ、真理(の光)には触れたくないわけです。

自分の内側に正直になって観察するならば、そういう「私」を認識することができます。

その「私」と真理はまったく相反するものです。

というのも、真理を前にするならば、その「私」というものは消滅するからです。

そして、その「私」はそれをひどく恐れています。

私たちが覚えておかなければならないのは、その「私」とはまさに自我なわけで、それが何を意味するのかというなら、その「私」は非実在なのだということです。

そのことを自覚するとき、ようやく、自分は間違っているということが受け入れられるようになるだけでなく、この「私」は何も解決することなどできないということを受け入れるようになります。

その真実を悟るとき、ようやくはじめて、私たちは聖霊(イエス)、つまり、自我を超越した存在(正しい心)を必要とするようになるといえましょう。

そのとき、「私」は何もする必要がなく、一歩下がるということの意味を知ることになります。


” あなたの準備は整っている。今あなたに必要なことは、自分は何もする必要がないと思い出すことだけである。今は、このことに意識を集中させることのほうが、自分が何をすべきかを考えることよりも、はるかに有益である。”(T-18.Ⅶ.5:4-6)

奇跡講座/中央アート出版社


そうなっていくにしたがって、私たちは、聖霊(イエス)を自分の教師として選び直すことを望むようになります。

そしてその実践がはじまります。

具体的に言うなら、「自分は自我を教師としていくことをもう望まない」という実践のはじまりです。

つまり、自我を教師とするのをやめることが、「聖霊の教師を招待する」ということであり、そしてそれが「聖霊を教師として選び直す」ということです。

そう、それだけが、私たちに唯一できることであり、そして、唯一私たちに与えられた機能なのだということを覚えておきましょう。


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