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悟りを生きている者の知覚とは、いったいどんな世界を見ているのでしょう?

ありのままに見るとは

もし人生で起きていること、経験していることに対して何の意味付けすることもスピリチュアライズすることもないならば、私たちはこの人生をどのように捉えるようになるのでしょう?

じつのところ、それこそが「ありのままに見る」ということなわけです。

ですが、私たちはそのように見ることをひどく恐れています。

なぜなら、私たちは人生で起こる様々なことに意味付けをしたいからです。

人生には何の意味もないというふうにはしたくないどころか、その真実を受け入れるのをひどく恐れています。

人生で起きていることや経験していることが無意味であっては困るわけです。

それゆえに私たちはこの世界を知覚するのを必要としているのだということを知っておきましょう。

いわゆる、差異、違いを見てジャッジメント(価値判断)していれば、それらは無意味ではなく、意味あるものとして知覚されるわけです。

ただし、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学習者の私たちが覚えておかなければならばいのは、知覚しているものすべてを非実在、無価値、無意味として見ていくことが、私たちが訓練していくことなのだということです。

というのも、それこそが正しい心(聖霊/正気)の視点であるからです。

つまり、コースのイエスや聖霊はそのように見ているということです、

ようするに、

あなたはイエスや聖霊のように見たいのか?

ということが、コースの実践において私たちに問われているわけです。

自分の見たいように見るのか?
それとも、
まったく別の見方で見たいのか?

というとき、「ありのままに見る」とは、後者のことを言っているのだということです。

それは、自分のものの見方、考え方の一切を脇に置くことを意味します。

それは、自分は何も分かっていない(Don't know mind)ということを受け入れるということであり、それこそが神の教師の特徴である「開かれた心」の状態であるわけです。

実際、ありのままに見ている視点、つまり、聖霊(正しい心/正気)の視点から生きるとき、人生で経験していることがどのように知覚されているのか?

というならば、

何の意味付けもなく、スピリチュアルな意味も目的も持たず、ただ肉体を纏う者としてこの世界に参加しているという感覚だと言うことができます。

それは、

「起きることが起きているだけ」
「ただ在る」
「今を生きる」

という言葉で表現されます。

「悟り」を生きている者の心の状態はまさにそのようなものだと言うことができるでしょう。

神のひとり子は、この世界の夢の中で何をしているのか?というなら、

「自分はただ肉体というものを纏って(まとって)、寝ているか、起きているか、座っているか、歩いているか、そのどれかをしているだけ」

だということです。

自我の視点からするならば、それほど退屈なことはないわけですが、ここで私たちが知っておくべきことがあります。

それは、あなたが正しい心/正気の視点から生きるとき、それは想像を超えるほどの素晴らしい愛の体験として経験されていくということです。

コースでは、それを天国(実相)を反映した世界として「実相世界」と呼んでいるわけですが、それがコース学習者の私たちが目的としている世界であることを覚えておくと良いでしょう。


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