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死ぬためにこの世界を生きるのか?死の夢から目覚めるためにこの世界を生きるのか?


私たちは誰もが自殺願望を持っている

私たちは、誰もが自殺願望を持っているといえます。

自覚していようがいまいが、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることをまともに理解するようになるならば、そのことが明らかになっていきます。

つまり、私たちは死ぬ(体験をする)ためにこの世界にやってきているということを理解するようになるということです。

それが意味するのは、本来の私たちは神に創造されたままの永遠なるもの(神の子)であるにもかかわらず、自分たちは永遠なるものではない存在になったフリをしているということです。

そして、それを可能とした世界が、この世界だというわけです。

コースでも、この世界について以下のように述べています。


”飢えと渇きに苦しむ生き物たちが死ぬためにやってくる乾いた埃っぽい世界” (W-pⅡ.13.5:1)

奇跡講座/中央アート出版社


神がけっして経験することのできないことを、あたかも実在性ある経験として可能にするために作り出したのが、この世界であるわけです。


すべては一なるものである永遠の中に、一つの小さな狂った考えが忍び込み、その時点で神の子は笑うことを忘れてしまった。彼が忘れたとき、その考えは深刻なものとなり、達成することも、実在性ある結果を生むことも、どちらも可能となった。(T-27.Ⅷ.6:2-3)

奇跡講座/中央アート出版社


神にはけっしてできないことを経験するために、この世界を作ったのです。

そして、神にはけっしてできないことのその究極が、「死」です。

ようするに、私たちは死という経験をするためにこの世界にやって来ているということなわけです。

ただし、私たちは、その真実はまったく自覚されることがないまま、無意識の部分にひた隠しにされている状態にあるといえます。

私たちは「自分はいつか死ぬ」と分かっていながら、そんな想いを内側に隠して遠ざけておくために、私たちはこの世界であくせく生きているわけです。

それが、私たちの真実です。

この世界で私たちは何をしているのか?

コースはそのことについて教えてくれていると言うことができます。

そしてコースは、「自分はこの世界に居る」と信じていること自体がそういうことなのだということを自覚/認識しなさいと、私たちに告げています。

テキストの第19章「Ⅳ.平安への障害」”死の魅力”(T-19.Ⅳ.C)でも、私たちは死に魅了されているということが述べられています。

私たちが自覚/認識すべきことは、「自分は死ぬ存在である」と信じていたいのだということです。

私たちは「死」という経験をするために、この世界にいるのだということです。

そのために、その目的のために、この肉体を、この世界を、この人生を、使っているということです。

しかも、本当は「死」というものはあり得ないのに、本当は無限なるものであるにもかかわらず、です。

まともに考えるなら、いかにそれが狂気であるかは明らかです。

つまり、それが正しい心(聖霊)の思考体系から見た視点です。

その視点(視座)が認識できるようなっていくとき、私たちは、その狂気さを微笑んで見ることができるようになっていきます。

そして、その訓練を重ねていくにつれて、私たちの真実が認識されていくと共に、深刻さというものから解放されていくことになるでしょう。


存在するように見えるが実は存在していないこの世界の中で生きるための、一つの生き方がある。あなたの外見が変わることはないが、あなたはもっとたびたび微笑むようになる。あなたの額は穏やかで、瞳は静かである。そして、この世界であなたと同じように歩む者たちは、自分と同じ者たちを認識する。(W-pI.155.1:1-4)

奇跡講座/中央アート出版社


まったく別のもう一つの生き方がある

コースは、この世界の中にいながら、まったく別のもう一つの生き方があることを教えてくれています。

言い換えるならば、この世界には二つの生き方しかないということです。

一つは、死に至るための生き方であり、もう一つは、死の夢から目覚めていくための生き方です。

その両方が見える視点に立つならば、誰もが後者の生き方を選択することでしょう。

じつは、私たちは、毎瞬毎瞬、その両方が見える視点に立っているのです。

ようするに、選べるのだということです。

ただし、私たちは、「自分はその視座(視点)にいるのだ」ということを忘れてしまっています。

なので、私たちは選び直すことができるのだということを忘れた状態になってしまっており、無自覚なままに(自我の)死の思考体系に突き動かされている状態になっているのです。

それを「心を忘れた状態」と呼んでいます。

だからこそ、そのことを認識していくために、そして、自分は心であることを自覚していくために、「コース形而上学の学び」と「赦しの実践」が私たちに求められているということです。

死ぬためにこの世界を生きるのか?

死の夢から目覚めるためにこの世界をいきるのか?

その選択はいまここにあるということを思い出していくこと、そして、後者を選択していくことがその訓練となっていきます。

その選択肢が自覚/認識されていくにしたがって、あなたのコースの歩みはますます妥協のないものになっていくことでしょう。


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