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苦しみの正体とは


自分が見ている世界の被害者ではない

自分が誰で?自分は何をしているのか?

私たちはそのことにまったくもって無知な状態になっています。

仏教では、それを「根本無智」または「無明」と呼んでいます。

私たちはこの世界に(生きて)いるというふうに思っていますが、

それが何を意味しているのか?

というなら、

私たちはまったく幻想を信じ込んでしまっているということです。

それによって、自分が何者か?自分が何をしているのか?すら忘れてしまっているのです。

本来、神と一つ(ワンネス)であるにもかかわらず、この今も神の平安の中にいるにもかかわらず、それを拒絶しているということです。

むしろ、ワンネスとは対極、神の平安とは対極のほうを好んでいる(望んでいる/選んでいる)、、、私たちはそういうことをしているのです。

毎瞬毎瞬、真理を否定して、自分のイメージででっち上げた幻覚(妄想)のほうを信じ込んだ状態になっている、、、

それが、私たちがしていることなのです。

しかしながら、普段の私たちはそういうことを自ら好んで自発的にやっていることをまったく忘れてしまっていて、その自覚がありません。

自分で自らそうしていることを忘れてしまっているがゆえに、もはや自分はニセモノの自分(自我)として自分で作り出したものに翻弄されまくっている状態にあるというわけです。

そう、コース(奇跡のコース/奇跡講座)の教えに基づいてありのままに見るならば、そのことがはっきりと認識されていきます。


なぜ私たちは苦しむのか?

なぜ私たちは苦しむのか?

というなら、「自分で自分にそうしている」ということをまったく忘れているからです。

そして、それこそが苦しみの正体なわけです。

それがすべての苦しみの原因です。

ですから、その真実(真の原因)を自覚/認識していくことこそが、私たちにとっての唯一の救いの鍵となるわけです。


”救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行っている」ということだけである。 攻撃の形の如何にかかわらず、依然としてこれが真実である。 敵や攻撃の役割を誰が担っていようと、依然としてこれが真理である。 何があなたが感じている苦痛や苦しみの原因に見えようと、依然としてこれが真実である。 なぜなら、自分が夢を見ていることを知っている夢の中でなら、 あなたもそこに登場する人影たちに対して、まったく反応しようとしないはずだからである。 彼らにはいくらでも好きなように、憎々しく狂暴にさせておきなさい。 これが自分の夢だということを、あなたが認識しそこなったのでない限り、彼らはあなたにどんな結果ももたらし得ない。”( T-27.Ⅷ.10 )

奇跡講座/中央アート出版社


ようするに、この世界の全ての苦しみから救われる鍵は「自分で自分にそうしている」ということを自覚/認識することだということです。

なぜなら、そのことによってのみ、自分はこの世界の被害者ではないということを思い出すことができるからです。


”私は自分が見ている世界の被害者ではない。”(W-p1.31)

奇跡講座/中央アート出版社


それは、

自分は誰なのか?自分は何をしているのか?

が自覚/認識されていくことを意味します。

と同時に、もう一つの選択肢があるということを思い出すことにもなっていいます。

「もう一つの選択肢がある」「もう一つの別の見方がある」ということが認識されていくならば、自分には選択し直せる(決断の)力を持っていることが思い出されていくのです。

そのようにして、自分はその選択肢において自らあえて苦しむことを選び続けていることがはっきりと認識されていきます。

そして、そのことを認識するとき、自分で苦しみをわざわざ選択していることがむしろ滑稽にさえ思えてきます。

そこから見ているものすべてが夢(虚偽)だとわかるだけでなく、それが夢(虚偽)であるにもかかわらず、自分はリアルだと信じ込んでいたことが苦しみの原因であったと悟ることになるわけです。

そのよう見えるとき、もはや苦しんでいることに笑いすら覚えることでしょう。

そこには、もはや深刻さはありません。

そのときにもたらされる知覚を、コースでは「聖霊のヴィジョン」と呼んでいますが、それはまさに悟りの視点だと言うことができます。

そこから見るとき、「もはや苦しみなど不可能、苦しむことなどあり得ない」という悟りの知覚が体験としてもたらされるからです。

その実践的な手段こそが、コースで「赦し」と呼んでいるものです。

コース学習者である私たちは、その赦しを完全に修得するためにコースを学んでいるのだということを覚えておきましょう。


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