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私たちは恐れについて理解する必要がある
真理では「恐れは実在しない」わけですが、だからといって、いくら頭でそのことを知的に分かっていたとしても、ほとんど役に立たないと言うことができます。
「恐れは実在しない」ということを知る(悟る)ためには、やっぱり、恐れを正視するほかありません。
恐れを正視することなく、「恐れは実在しない」と知る(悟る)ことはけっしてないということです。
それというのも、私たちはすでに恐れを実在化させてしまっています。
その状態で「恐れはないのだ、恐れは実在しないのだ」というふうにいくら呪文のように言い聞かせていったとしても、それでは何の訂正(取り消し)にもならないということです。
つまりは、「恐れは実在しない、恐れは幻想だ」などといくらアファメーションを唱えたり、聖霊に祈ったところで何の役にも立たないということです。
それでは、恐れを実在化させておきながら、無意味に否定(否認)しているにしかすぎないわけです。
コースでは、そうすることを、””否定の中でもとりわけ無価値な形の否定”(T-2.IV.3:11)というふうに述べています。
私たちは「恐れ」について理解しなければならないのであって、そのためには、恐れを正視(直視)しなければならないのです。
ようするに、私たちは、「見ること(looking)」が求められているのだということです。
恐れの訂正こそ、まさしくあなたの責任である。(T-2.Ⅵ.4:1)
しかし、あなたが恐れを免れたければ、いくつか理解すべきことがあり、しかもそれらは充分に理解されなければならない。(T-2.Ⅵ.9:4)
コースの実践とはそういうものだと分かってくるならば、いわゆる、恐れが湧き起こってくるときこそが、恐れを取り消す(訂正する)チャンスなのだというふうになっていくといえます。
恐れをありのままに見る(直視する/正視する)ことができるようになっていくということです。
「恐れ」それ自体にいいも悪いもありません。
むしろ、恐れを嫌なもの、悪いものだと拒絶していること自体が、恐れを強化することになるのだということです。
恐れをあるがままに見るとは、聖霊(正しい心)と共に見るということであり、つまりは、コースの思考体系(形而上学)を携えて見るということです。
そのような実践をしていくにつれて、私たちは恐れを超えて(通り抜けて)いくことができるようなっていきます。
そうしていくとき、恐れとは真の自己を思い出すことへの抵抗、真理への抵抗、愛への抵抗である、ことが分かっていきます。
恐れは、個別性、特別性、自我を維持したいがゆえの抵抗であることが理解されていきます。
その抵抗がないならば、もはや個別性、特別性、自我を維持することができないどころか、すべてが全一なるワンネス(愛)の中へと消滅してしまうことになるわけで、私たちは、そうなってしまうことにひどく抵抗しているということです。
そのことを理解したうえで恐れを直視していくのです。
個別性、個人性を信じている自分は、つまり、自我である自分は恐れ(抵抗)があって当然なこととして受け入れていくということです。
恐れる自分(自我)を赦すということです。
「恐れ」があるから抵抗するのであり、抵抗するから恐れが増大するわけです。
そのようにして恐れの正体を悟るとき、もはや、恐れが恐れではなくなっていきます。
恐れがないならば、そこにあるのは平安です。
そのようにして形而上学のもとに恐れを正視するとき、つまり、聖霊(イエス)と共に直視するとき、恐れなどどこにも無いことが体験的に理解されていくことになります。
自分はただ愛を拒絶しているだけだった、
恐れとは愛の呼びかけでしかなかった、
ということが明らかになるということです。
ようするに、「恐れからの解放」「恐れからの脱却」は、平安がそこにあるということを悟る(知る/学ぶ)ことによってなされるのだといえましょう。
そのために私たちは恐れを正視していかなければならないということです。
もっといえば、恐れが湧き起こってきたときこそ、恐れを訂正(取り消す)する大いなるレッスンの機会なのだいうことを忘れないように実践していきましょう。
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