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贖罪を受け入れる瞬間、それは「いま」なのだ

恐怖の時間が愛の座を奪ったあの瞬間

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の赦しを実践していくと分かってくるのは、この世界で、そして、この人生で起きていることのすべては、あの原初の瞬間を繰り返しているだけなのだということです。

私たちが経験していることは、原初の瞬間をただ形態を変えて、シチュエーションを変えて、いろいろなバリエーションで再現しているだけなのだ、ということが、赦しの実践を通して体験的に理解されてくるということです。

ようするに、私たちが人生と呼んでいるものは「神から分離した」と信じたあの原初の瞬間をただ繰り返しているだけなのだということです。


毎日、毎分、刻一刻、あなたは恐怖の時間が愛の座を奪ったあの瞬間を再び生きているだけである。 ((T-26.V.13:1)

奇跡講座/中央アート出版社


そのことが体験的に理解されてくると、「神から分離した」と信じたあの瞬間とは、まさにこのいまなのだ、ということが明らかになってきます。

すべてのときがいまであり、いましかない、と。

つまり、時間というものは、ただの幻想なのだと分かってくるだけでなく、すべては「いま」起きているという知覚の仕方になってくるということです。

そうなっていくとき、このいまも、この瞬間も、「小さな狂った考え」を信じることを選択し続けていることが自覚/認識されるようになります。

毎瞬毎瞬、聖霊ではなく、自我のほうを選んでいることを自覚/認識するようになるということです。

それが何を意味するのか?

というなら、私たちは救われたいと思いながらコースを学んではいるものの、じつのところは、まったくそうではないのだということです。笑

私たちは常に自我を教師としていて、むしろ、救われることを拒絶しているだけでなく、もっといえば、この世界の夢から目覚める気などさらさらないということが分かってくるわけです。

その自分(自我を選択し続けている自分)を自覚するとき、その自分ではもはやどうしようもできないということが分かってきます。

そうなって、私たちはようやく自我を教師とするのをやめて、聖霊に助けを求めるしかないということが分かります。

そのことを自覚/認識していくことがとても重要だといえます。

なぜなら、そうなってようやく私たちは、イエス/聖霊という教師に助けを求めるようになるからです。

いわゆる、そのときから自我を教師とする代わりに聖霊(イエス)を教師として選び直す、という訓練がはじまるということです。

その訓練は、私たちが自我を選び続けるかぎり、訂正し続けていかなければならない訓練なのだということです。

それは、コースでいう「贖罪」を受け入れるそのときまで、成されなければならない訓練であるわけです。

「贖罪」とは、二度と自我(幻想)を信じなくなる、ということです。

ようするに、私たちはコースの「赦し」の実践を通して何をしていくのか?

というなら、

あの原初の瞬間に戻って、正しい心(聖霊/イエス)と同一化していく訓練をしていくのだということです。

正しい心(聖霊/イエス)とは、贖罪の原理のシンボルであるわけです。

つまり、コース学習者の私たちは「贖罪を受け入れる」ための訓練をしているのだということです。

しかも、それはいまなのだということを、その実践を通して学んでいっているのだというふうに言うことができましょう。


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