自我の思考体系にしがみついている自分を自覚していくこと

あなたはどれほど救済を望むのだろう

私たち誰もが、幸せになりたい、救われたい、と望んでいるといえます。

幸せになりたくない、救われたくない、と思っている人などいないといえましょう。

ただし、それは表層意識のまやかしであるということを私たちは学ばなければならないのです。

というのも、私たちの無意識レベル(自覚していない心)では、幸せ、救いの真逆を望んでいるからです。

この世界の誰もがその内側では、幸せ、救いなど望んではいないのです。

でも、そのことは私たちの自覚していない無意識層のレベルに隠されているので、私たちには認識できないようになっています。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることを理解するようになるとき、私たちはその真実が認識できるようになります。

たとえば、もし本当に救済を望んでいるのなら、この世界のこの人生のどんなことよりも何よりもコースの学びを最重要事項としているでしょうし、日常においても妥協なくコースを実践していることでしょう。

自分がそうではないということは、自分自身に正直になれば明らかなはずです。

そう、コース学習者の私たちは、そのことを自覚していくことが求められているのです。

ただし、コースを学んでいたとしても、実践においてそのことを認識していくことはなかなか容易ではないということも知っておきましょう。

そのことを認識するとき、自分はどれだけ自我の思考体系にしがみついていたいのかを自覚することができます。

どれだけ神のもとに帰ることを拒んでいることか!
どれだけ天国を避け続けていることか!

そのことを自覚していくはとても重要です。

むしろ、その自覚がないならば、コースを学んでいくこともできなければ、その実践もあり得ないといえましょう。


あなたはどれほど救済を望むのだろう。救済があなたに与えることになる実相世界は、すっかり準備を整えて、すぐにでもあなたに与えられたいと勇み立っている。(T-17.Ⅱ.8:1-2)

奇跡講座/中央アート出版社


この今も、毎瞬のように自我(の思考体系)を握りしめているということを自覚/認識していくことが私たちがしていかなければならないことだということです。

ちなみに、その実践は、自我(の思考体系)を手放そうとすることではありません。

そういう実践をしたとしても、それが無理なことが分かるはずです。

なぜなら、自分は、今や自我になってしまっているからです。

私たちにできることは、その自我を咎めずに見る、ということです。

それが、私たちがしていくことです。

私たちは聖者や聖人になることを求められているのではありません。

私たちは、イエス/聖霊に対してただ正直になることが求められているのです。


”私たちがしていくのは、自我を手放すことではありません。私たちがしていくのは、自我の目的を認識し、自我の思考体系に自分はしがみついていることを認識すること。それは(神の)平安を望んではいないということなのだ、と認識することです。”

ー『The Transformed World』ワークショップのワプニックさんの講話よりー


自我の思考体系にしがみついているその自分を認識していくことです。

それを聖霊の視点で咎めずに見ていくことです。

それが、「自我を聖霊のもとに運ぶ」ということなわけです。

私たちは自我と一体化しているがゆえに、むしろ、それを見ないように、認識しないようにと突き動かされています。

でも、実践(訓練)を通してその理解が深まっていくにしたがって、自我の精神力動に気づけるようになっていきます。

私たちの無意識のレベルでは神の平安など望んではいないということを、もっと自覚/認識するようになるということです。

自我になってしまっている私たちは、じつは、救済など望んではいないわけで、そのことをまったく認識していないのが問題なわけです。

自我にしがみついている自分が認識されることがないならば、それが取り消されることもなければ、それは隠されたまま保持され続けることになります。

だから、私たちはそのことを認識していくことが求められているのです。


あなたはどれほど救済を望むのだろう。(T-17.Ⅱ.8:1)

奇跡講座/中央アート出版社


「自分は救済を望んではいない」ということを認識していくことが、私たちがコースの実践で求められていることなのだということです。

つまり、愛を阻む障壁を認識していくということです。

認識されていくならば、その障壁は取り消されていきます。

そう、むしろ、「自分は救済を望んでいない」ということを自覚/認識しないかぎり、私たちはどうやって救済されるというのでしょう。


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