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二元性の思考体系がいかに狂気であるか!を認識できるようになるために


二元性の思考体系/自我の思考体系を理解する

通常、私たちは二元性の思考体系でもって、ものごとを捉え、考えていると言うことができます。

つまり、それをコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、「自我の思考体系」と呼んでいるわけです。

ただし、それがあまりにも当たり前すぎて、それが二元性(自我)の思考体系だと気づいていないのが、私たちだといえます。

でも、コースを学んでいくことによって、私たちは、それが二元性の思考体系、つまり、自我の思考体系であることが認識できるようになっていきます。

それだけではありません。

その二元性(自我)の思考体系がいかに狂気であるか!も認識できるようになっていきます。

そのことを認識していくことによって、ようやく私たちは二元性(自我)の思考体系から脱却して正気の思考体系へのシフトを望むようになるといえます。

いわゆる、コースでいうところの本格的な学びと癒しが、そこからはじまるということです。

ちなみに、その正気の思考体系のことを、コースでは「聖霊の思考体系」と呼んでいます。

ここで覚えておかなければならないのは、「正気の思考体系/聖霊の思考体系」というものが存在しているわけではなく、それはあくまでも「狂気の思考体系/自我の思考体系」に対しての訂正の思考体系として、そう呼んでいるということです。

私たちコースの学習者が目指しているのは、「自我の思考体系からの完全なる脱却」なのだということです。

そして、それを言い換えると、「聖霊の思考体系との完全なる同一化」と呼んでいるということを理解しておきましょう。


自我の思考体系と聖霊の思考体系

「自我の思考体系」と「聖霊の思考体系」ということでいえば、私たちは今や自我の思考体系と同一化してしまっているということです。

「自我の思考体系」とは、二元性の思考体系のことです。

一方、

「聖霊の思考体系」とは、二元性の思考体系に対する訂正の思考体系であるわけです。


狂気の思考体系を、その内側から評価することは不可能である。それが占める範囲のゆえに、これが不可能となっている。あなたにできることは、ただその思考体系を超えて、正気が存在する地点から振り返り、正気と狂気の対照性を見ることだけである。この対照性によってしか、狂気が狂気と判断されることがあり得ない。(T-9.Ⅶ.6:1-4)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちコース学習者は、自我の思考体系から聖霊の思考体系へと完全にシフトしていくことを目指しているということです。

それは、狂気の思考体系から正気の思考体系への完全なるシフトであり、つまりは、聖霊(正気/正しい心)と完全に同一化することをゴールとしているということです。

そうなっていくために私たちは何をしていくのか?

というと、

聖霊(正しい心)の視点から自我(の思考体系)を見ることをしていくのだということです。

コースでは、それを「聖霊と共に見る」「自我を聖霊のもとに運ぶ」という言い方をします。

そのために私たちは「自我の思考体系」と「聖霊の思考体系」の両方を見ることができる視座(視点)を思い出す必要があるわけです。

ただし、私たちは自我と同一化してしまっていて、今や、その両方が見える視座(視点)をすっかり忘れてしまっています。

私たちは、もう一つのまったくの別の見方(思考体系)があることすら忘れた状態にあるわけです。

あまりにも自我の思考体系に馴染みすぎて、それがあまりにも当たり前ぎるがゆえに、まさか自分が自我と同一化した状態になっているとはまったく気づいていないのです。

それが自我の思考体系だと認識することができない上に、それどころか、それが狂っている(狂気の思考体系)と識別することすらできない状態になっています。


狂気の思考体系を、その内側から評価することは不可能である。それが占める範囲のゆえに、これが不可能となっている。(T-9.Ⅶ.6:1-2)

奇跡講座/中央アート出版社


だからこそ、私たちはコースの学びによって、自我について、自我の思考体系について理解していくことが求められているのだということです。


正気と狂気の対照性を見る

コースの教えを通して私たちは何を学んでいるのか?というなら、

自我(自我の思考体系)を識別できるようになるために、コースの思考体系(聖霊の思考体系)を学んでいる

と言うことができます。

言い換えるなら、コースの思考体系(聖霊の思考体系)を理解していくならば、自我(自我の思考体系)を識別することができるようになるということです。

というのも、自我(自我の思考体系)が識別できないかぎり、どうやって自我の思考体系から自由になれるというのでしょう。

だからこそ、私たちはコースの思考体系(聖霊の思考体系)について学んでいく必要があるわけです。

聖霊/イエスは、どのような視点から、どのように私たちやこの世界を見ているのか?

そういうことについて、私たちはコースを通して学んでいるのです。

まずは、コースの思考体系を知的(形而上学的)にしっかり理解していくことが私たちに求められているということです。

そうするならば、次第に、私たちはその理解に基づいて実践ができるようなっていきます。

そして、その実践を通して聖霊の視点を思い出すことができるようになっていきます。

そうしていくとき、私たちはコースの学びと実践を通して、いかに自分は自我(の思考体系)と同一化しているか!そして、いかにその自我の思考体系が狂気であるか!を自覚/認識するようになります。

その自覚/認識こそが、正気の思考体系(聖霊の思考体系)へのシフトの第一歩だと言うことができるでしょう。

正気(正しい心)だからこそ、それが狂気だと認識することができるわけです。

つまりは、「それが狂気(自我)である」ということを自覚しているということ自体が、正気が思い出されていると言うことができます。

そして、正気が思い出されていくということは、同時に、別の選択肢があるということが思い出されていくということです。

正気と狂気の両方を認識している視点(視座)から見るとき、つまり、自我の思考体系と聖霊の思考体系の両方が見える視点に立つとき、私たちはそれらを識別することができるようになるということです。


あなたにできることは、ただその思考体系を超えて、正気が存在する地点から振り返り、正気と狂気の対照性を見ることだけである。(T-9.Ⅶ.6:3)

奇跡講座/中央アート出版社


正気の思考体系と狂気の思考体系、
つまり、
聖霊の思考体系と自我の思考体系、

その両方を見るならば、私たちはその対照性をはっきりと認識することができます。


この対照性によってしか、狂気が狂気と判断されることがあり得ない。(T-9.Ⅶ.6:4)

奇跡講座/中央アート出版社


正気と狂気。

光と闇。

真理と幻想。

その両方を同じところ(祭壇)に持ってくるなら、どちらか一方は虚偽である(実在しない)ことがはっきりと分かります。

そのとき、実在しないほうは虚偽だと明らかになります。

それは、双方が和解して統合されて一つになるのではありません。

それは、ただたんにどちらか一方が虚偽(非実在)であることが明らかになるということです。

それによって、もともと対照性もない一なるものでしかない(分離はない)となるのです。

訂正された知覚とは、そういうものです。

自我の思考体系と聖霊の思考体系の両方を同じ一つどころに持って来るならば、つまり、自我の思考体系を聖霊の思考体系のもとに運ぶならば、自我の思考体系が虚偽だと認識されるわけです。

虚偽であるものが、それが虚偽だと思い出されていくということです。

それを、コースでは「奇跡」と呼んでいます。

コースという霊性の道はそういう道であり、だからこそ、「奇跡の道/奇跡のコース/奇跡講座」と呼ばれているのだということを知っておくと良いでしょう。


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