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スピ系の「悟り」についてコースの観点から考察してみる


悟り、ワンネスを一瞥しようがしまいが

巷のスピ系で「悟り」(の体験)と呼ばれているものについて、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の観点から書いてみようと思います。

結論から申せば、コースの観点から言うと、「悟り」の体験というものは、実相(真理/天国/ワンネス)を一瞬だけ垣間見ただけ、つまり一瞥しただけであり、それが私たちコース学習者のゴールとするものではないということです。

コース学習のプロセスにおいても愛に満たされる体験だったり、「悟り」の体験をしたりもしますが、それがゴールではないということです。

ようするに、「悟り」を一瞥体験したとしても、「悟りをいきる」という訓練がされてないならば、この世界の夢の中で訓練していく必要があるわけです。

そしてコースのスピリチュアリティは、それに値する訓練であると言うことができます。

その実践を、コースでは「赦し」と呼んでいます。

「赦し」とは、「そもそも何も起きていない」「この世界は虚偽でしかない」「これは自分で見たくて見ている夢である」という視点から見る訓練(=looking)のことを言います。

ちなみに、コースではそれを「聖霊と共に見る」という言い方をしますし、そこから見ている知覚を「ヴィジョン(心眼)」と呼んでいます。

つまり、「聖霊と共に見る」とは、悟りの視点から見ることだと言うことができます。

コースの学習者は、その知覚(ヴィジョン/心眼)を開いていくために「赦し」の実践をしていくのであり、最終的にはその知覚を完全に修得することを目的としているということです。

上記に述べたように、「悟り」の体験、つまりワンネス体験、一瞥体験、見性体験、覚醒体験といったものなどは、コースでは、それを「目覚め」とは言わないということです。

ちなみに、コースではそれを「啓示」というふうに呼んでおり、それは「到達地点を垣間見た」という一つの道標となるものではありますが、それだけのものでしかないということです。

テキストの第一章のセクションⅡ「啓示、時間、奇跡」の中で、「啓示」について以下のように言及してあります。


”ときには啓示が到達地点を明かしてくれることもある・・・”
(T-1.VII.5:11 )

奇跡講座/中央アート出版社


たしかに、到達地点を知ったという意味では、そういう体験は学びのモチベーションにはなるでしょう。

ただ、私自身の経験から申しましても、コースを実践していく上ではあまり関係ないと言うことができます。

それというのも、「悟り」を経験したとしても、それはコースでいう「心」を変化させるものではないからです。

やはり、この世界を非実在として知覚していないならば、私たちは「心」を訓練していく必要があるということです。

訓練が成されていない「心」は、必ず、外側の世界のもの、こと、人によって動揺させられ、それによって、またこの夢の世界に縛り付けられていくことになります。

訓練が成されている「心」と、訓練が成されていない「心」との間には、雲泥の差ほどのちがいがあることを知っておきましょう。

訓練が成されていないならば、いともたやすくこの分離の世界にさまよい込んでしまうわけで、ですから、私たちはこの世界を知覚している間は、この世界を教室として、訓練(実践)していく必要があるのです。

それだけがこの世界で唯一価値のあることであり、それだけがこの世界での私たちの機能(役割)であるわけです。

何度も申しますが、悟りを一瞥をしようがしまいが訓練していくことには何の変わりはないということです。

悟り系のスピリチュアリティでは、一瞥体験することがゴールであるかのように捉えられていますが、そうではないということです。

コースの観点からいうならば、「悟り」の体験はゴール(到達地点)を垣間見ただけだということです。

ちなみに、「悟り」という言葉は仏教用語なわけですが、仏教の教えでも「悟り」を体験した後にも修行は続いていく「悟後の修行」というものを説いています。

そういうことから言うなら、仏教用語でいうところの「解脱」という言葉のほうが、コースでいうところの「目覚め」という言葉の定義と近いように思います。
(悟り系やノンデュアリティのスピリチュアリティで呼んでいる「悟り」は、「解脱」とはまったく異なるものということです。)

コースという霊性の道の歩みにおいては、「悟り」「ノンデュアリティ」のスピリチュアリティとは違って、もっとその先にその目的(ゴール)はあるということを知っておきましょう。


非二元から純粋非二元へ

巷のスピ系の「悟り」や「ノンデュアリティ」のスピリチュアリティとコースとの違いで言えば、前者は悟り、真理、ワンネス、平安、愛、といったものにフォーカスしている点にあるといえます。

でも、コースの学習者ですらも、そういうものにフォーカスしてコースを学び、実践しているケースがあったりします。

もしそのような学びと実践をしているとしたなら、コースはそういうものではないということを知る必要があるといえましょう。

実際、コースはそのようなスピリチュアリティ(霊性の道)ではないからです。

それというのも、コースのテキストの序文にもそのことについて述べてあるわけです。


このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。それは教えることのできる範囲を超えているからである。しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは目指している。(T-In.1:6-7)

奇跡講座/中央アート出版社

あなたの為すべきことは愛を探し求めることではない。あなたが自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことである。真理であるものを探し求める必要はないが、誤まっているものを探し出すことは確かに必要である。(T-16.IV.6:1‐2)

奇跡講座/中央アート出版社


コースの教えをちゃんと理解するならばそのことが分かってくるはずですが、そういうことを理解しているコース学習者は本当に少ないといえるでしょう。

コースの学びと実践において、私たちがフォーカスしていくべきは、悟り、真理、愛、ワンネスといったものを見えなくしている障壁(自我)のほう、つまり、それらとは真逆のほうなのだということです。

そういうことを理解することなく、コースの学びと実践を進めていくことは不可能だといえます。

コースが教えていることを理解するなら、コースは他のスピリチュアリティとは一線を画するとものであると分かります。

もっといえば、コースというスピリチュアリティは、「非二元」のさらに先にあるものを探究していく霊性の道だとして、「純粋非二元」という呼び方をするということを知っておくと良いでしょう。


人間、肉体、死すらも超越していく

コースの学びが進んでいくとどうなっていくのか?

というと、知覚のシフトに伴って、心の自分(真のアイデンティティー)が次第に自覚されて(思い出されて)いくと言うことができます。

そうなっていくならば、当然、人間である自分はただ夢の中の登場人物の一人(キャラクター)にしかすぎなかったということが自覚/認識されていくわけです。

何が言いたいのか?というと、自分を人間だと信じたままコースという霊性の道を先に歩んでいくことはできないということです。

コースは、人間、肉体、死すらも超越していく道であるということです。

コースはそのような霊性の道(スピリチュアリティ)であるということを知っておかなければなりません。

結局のところ、

「悟り」の体験をしようがしまいが、
ワンネスを一瞥しようしまいが、
真理を垣間見ようが見まいが、

「自分はこの世界の中に居る」「自分は人間である」というふうに知覚しているならば、コースの学びにおいてはまだ学びの途上にいるのだということです。

たとえコースの学びのそのプロセスにおいて「悟り」みたいな体験をしたとしても、コースにおいては、それが私たちのゴールではけっしてないということを肝に銘じて学びと実践に励んでいきましょう。



参考記事:JACIMサイト別館ワンポイント解説「奇跡と啓示」


参考記事:JACIMサイト本館 奇跡講座の学び方 「啓示」について


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