天国であるワンネスを思い出していくために私たちが必ず修得しなければならないもの
全一なる知覚(真の知覚)とは
赦しの視点から見た知覚とはどういうものか?
というなら、
それは、知覚しているものすべてを包含して、しかもそれらすべてを等しく同じ幻想として見ている知覚のことを言います。
それを、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、「ヴィジョン」「真の知覚」と呼んだりしています。
そして、すべてを包含しているという意味で、「全一なる知覚」と呼んだりしています。
その赦しの視点に戻るならば、外側には誰もいない、何も無いことが分かるだけでなく、それと同時に、目に映るこの世界のすべてが自分(心)の側面を見ているにしかすぎないことが明らかになります。
目に映るもの、人、こと、そのすべてが自分の断片の一部であると認識することになるので、外側の誰一人たりとももはや咎めることができないことを理解するわけです。
つまり、外側に見る兄弟姉妹たちが自分とは別々の存在としては見なくなるということです。
そのようにして、赦しの視点に戻っていく訓練をしていくことによって、すべてを包含した全一なる知覚が修得されていくと共に、自分は「心」であるという自己認識(アイデンティティー)の感覚を思い出すようになっていきます。
真のアイデンティティーはそのようにして思い出されていくということを知っておくと良いでしょう。
そこから見るとき、すべての自我を包含して、そのすべてを一つの自我として見ています。
そのとき、いくつもの自我があるのではなく、一つの自我しかないということが理解されます。
しかも、咎めることなく、あるがままに見ています。
そして、それが虚偽(非実在)だと分かっているので、平安と共に見ています。
その赦しの視点こそが、聖霊の視点(聖霊のヴィジョン)であるわけです。
すべてを包含しているので、誰一人、何一つも除外していません。
まさに、それが、全一なる知覚というものです。
すべてを同じく等しく虚偽として見ている知覚です。
何が言いたいのか?というと、
全一なる知覚から見ることなしに、つまり、すべてを全一に同じとして見ることなしに、コースでいう「赦し」はあり得ないということです。
逆に言い換えるならば、全一なる知覚が修得されていくとき、自分の外側に他者はいないということも分かってきますし、ここには自分しかいないし、すべてが自分の心の中を見ているだけということが分かるようになるということです。
兄弟を裁いているなら、それは自分を裁いているだけ、ということを理解するわけです。
自分の内側で否認している(受け入れていない)自分をただ外側の兄弟に投影しているだけだと分かってくるということです。
それは、まるでバラバラになった自分自身の断片を一つ一つ受け入れて包含していく作業に似ています。
何一つ、誰一人も除外しないこと、それがとても重要だということです。
何か一つでも例外を設けるならば、誰か一人でも除外するならば、それが分離の想念を受け入れたことになるわけですから。
逆に、分離の訂正は、「一つたりとも除外しないこと」ということです。
私たちはそもそもがワンネスであるわけですから。
それが真理というものです。
ならば、この世界の中でもそのような知覚をしていく必要があるということです。
それは、コース学習者にかぎらず、非二元のワンネスを体現していこうとしている者にとって絶対に修得しなければならない知覚の仕方だといえます。
ようするに、私たちは全一なる知覚(真の知覚)の修得なしにはワンネスを体現することなどあり得ないということを覚えておきましょう。
全一性、ワンネスをこの世界に反映した知覚
全一なる知覚が修得されていくにしたがって、それと同時に、「自分は心である」という自己認識もますます自覚されていくことになります。
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