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無慈悲、不親切、自己中心的、不正義な自分とどう向き合っていけばいいのか?


無慈悲で、不親切で、自己中心的、不正義な自分

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいく上で私たちが知っておかなければならないことは、「自分はこの世界に存在している」と信じているということ自体が、すでに自我と同一化した状態になっているのだということです。

つまり、今や私たちは「自我」というニセモノの自分と同化してしまって、それを自分だと信じ込んでいるということです。

ですから、そのニセモノの自分が、いくら神聖で素晴らしい聖人になろうとしても、あるいは、慈悲深く、親切で、清らかな想いを持った聖者、賢者になろうとしたところで、その自分はニセモノの自分であることに変わりないわけです。

自我がどのようになったところで自我のままであって、どこまでいっても自我のままでしか成り得ないということです。

そう、いくら聖者、賢者になろうとしたところで、この世界の中にいる私たちは自我なのであって、どこまでも無慈悲で、不親切で、自己中心的、不正義であり続けるわけで、その自分(自我)は攻撃や裁きを止めることなどできないということです。

この世界に生きる私たちはそういう生き物(夢のキャラクター)であり、この世界にいる誰もがそうなのだということを、私たちは理解する必要があります。

私たちは自我になっており、その自分が無慈悲で、不親切で、自己中心的、不正義ではなくなるのではないのです。

そして、その自分(自我)とは一切関係のないまったく別の自分(真の自己)がいるということを思い出していくのが、このコースの霊性の道であるといえます。

そういうことを形而上学的に理解しておくことはとても重要です。

というのも、その形而上学的な理解こそが、自我を咎めずに見ることを可能にするのであり、さらには、その理解こそが、自我(自分)との闘いを終わらせることになるからです。


独立宣言

上記で述べたことについて、ワプニック博士はこう云います。


この世界に居る私たちが、慈悲深く、親切で、罪なき想いを持たずに正義でいるということはけっして不可能です。とはいえ、私たちにはできることがあります。それは、無慈悲で、不親切で、自己中心的、不正義である自分に気づく、ということです。それが、自我を(聖霊と共に)見るということであり、私たちがこの世界でしていくことです。」

ー『The Quality of Mercy(慈悲のクオリティ)』より抜粋ー


私たちが覚えておかなければならないのは、自分だと思っている「自分」が慈悲深く、親切で、正義であろうとすることがコースでしていく実践なのではないということです。
(もちろん、慈悲深く、親切であることがいけないことではありません。)

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