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2022/12/01 没入と文章

noteとかブログみたいなものって、手段と目的が入れ替わって、いつの間にかnoteのための生活、ブログのための読書みたいになっちゃう時期みたいなのがあって、ブログの方の『ミッドナイト・ライブラリー』ネタバレ有りでの感想記事を書くときまで、本当にそんな感じだったんだよね。いつの間にか。本当にいつの間にか、主軸がうつりかわってしまうんだよ。

そういう時、「面白くもなんともない人生をより脚色するにはどうすればいいのか」とか「どこかにブログの文章化できる箇所があるはずだ」とつまらない本と向き合ったりとかしてしまう。

全くの無駄な行為とは言わないけれど、これってめちゃくちゃキツイんだよ。

まずその時間、基本的に面白くないんだもん。「面白くないことを面白くする」とは違って、すでに面白くなかったことを面白くする才能が必要。だから基本的に精神的にはフラット、むしろマイナスの状態でその日の出来事を振り返ったりするんだよ。

「面白くないことを面白くする」のは、まさにリアルタイムの工夫であって、今現在とっている行動に面白いところを見つけようとすることで、本物の「うわこれおもろっ!」という体験を自分の情動プールから引き出すことができる……可能性がある。

その中にあっても、「これ、note(ブログ)で使えるナア」なんて思っては本末転倒。心の底から楽しんでいないと、味噌カスみたいなアウトプットしか生まれない。どこか空疎な文章しか書けない。

ではどうすれば「今ここに集中し、現在を面白くすることができるのか」であるが、それはもう没入と集中しかない。

フローとかいうやつに入るのだ。

今やっている作業、読んでいる本・漫画、観ている映画・アニメ、聴いている音楽・ポッドキャストに集中することだ。メモを取れる体制ならばとってもいいかもしれないが、あくまでも目的はその行為をしていることなので、ある程度は余計なことを考えず、ただその行為に身を任せるべし。

良い批評というのは、至上のエンタメ体験をしたからには、書かずにはいられない、誰かにこの熱狂を伝えたいというモチベーションの濁流によって書かれるものだと思う。批判だらけの文章は、必ず誰かからの借り物の文章になる。自分の言葉で、自分の解釈で作品を語ってみると、アウトプットされたものが光り輝いて見える。それを投稿すればいいのだ。

みたいなことを考えながら書いたのが、点の記録で書いた「※ネタバレ有り タラレバファンタジーに元気づけられた話――『ミッドナイト・ライブラリー』」だ。……まあ、書き直すかもしれない。

たとえ翌朝、それがどうみても糞の山に見えるものであったとしても、限りなく100%集中に近い没入体験の果てに得られたものを文章化し、それを言語化していくことしか、基本的には面白い文章、面白い批評なんて出て来ないんじゃないかね。

いつも心にみくのしん。

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