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国際夫人会議


 八月半ばの強烈な日差しが、地上にあるすべてのもの――空気、街路樹、車、
人――の水分という水分を徹底的に捲き上げようとぎりぎり照りつけるある水曜
日の午後、ジュネーブにあるパレクスポ・エキシビションセンター入り口には、続々とシャトルバスが乗り付け、ガラス張りの回転ドアは休むひまなく人々を飲み込んでいた。
 彼らは演劇の最中にのっぴきならない用事を思い出して慌てて舞台から駆けつけてきたかのように各々違った奇妙ないでたちをしており、ある者は真ん中でぴったりと分けた黒髪を結いあげ、一九世紀初頭風の四段飾りの付いたカナリア色のドレスに身を包み、ある者は銀色がかった緑色のマーメイドラインのドレスを纏い、またある者は恥知らずなほど透けきったシャツ型ワンピースからショーツ以外何もつけていない裸同然の姿を見せつけていた。
どの御仁にしても、およそ会議にふさわしい格好とはいえなかったが、見る者に不思議と一定の印象を与えた。
 それは、悲劇的な空気をまとわりつかせたよるべない雰囲気と、自分以外はすべて脇役といったある種のふてぶてしさの入り交じった主役然とした態度からくるものだった。

 彼らが吸い込まれる中央会議室とよばれる部屋には、入り口に向って一部が切り取られたドーナツ型の巨大なデスクが設置され、円を描いて置かれたそれぞれの席には、横倒しになった三角柱のネームプレートとマイク、メモ帳、水差し、手拭きが置かれていた。
 また、各席の後ろには二脚の椅子が二列に並べられ、先頭の発言者に知恵を授けたり励ましたりできるように配慮されていた。ドーナツの中心は階段二段分ほど低まっており、書記用の長テーブルが置かれ、一〇人が掛けられるようになっていた。
 三々五々、女性たちが席についたところで(よく見ればほぼ全員女性だった)正面の司会者が木槌を振るうと、場内はたちまち静まり返り、みな通訳用イヤフォンを耳に当てた。
 司会は、夫人の自由と平等のためにたたかうとして一九一〇年に提唱された『国際夫人デー』の記念すべき一〇〇年目にあたる今年、このような大規模な会議を執り行うことができて光栄であること、『国際夫人デー』は国連事務総長が夫人の十全かつ平等な社会参加の環境を整備するよう加盟国に対し呼びかける日ともなっていること、それらが名目上ではなく実際に生活のなかでどのような意識の変化をおし進め、いかなる豊潤な果実をもたらしているかを、世界各地から集まった先鋭の(という言葉を使った)夫人たちに自由闊達に意見交換していただき、何がしかの成果をもたらす場となることを望むと挨拶し、女性たちはみな一斉に拍手した。そして、司会は配布したレジュメに注意を促し、本日のテーマである「婚姻制度が夫人にもたらす意義」について意見を求めた。
 最初に口火を切ったのは銀緑色のドレスを着た五〇がらみの女性だった。少し白いものの交じった髪はゆるくウェーブし、柔和な顔を縁取っている。
 彼女のネームプレートには「Clarissa Dalloway」と書かれていた。
 「私が思いますのは、まず結婚というものにはほんのわずかでも自由とか独立がなければならないと思います。夫は政治家ですが、妻として何もかも把握しようとは思いませんわ。正直に言って、彼の出席する委員会がアルメニア問題についてなのか、アルバニア問題についてなのか気にしないんです。私はそれより薔薇が好き。シェイスピアのソネットが好き。そのことがアルメニアだかアルバニアだかを救うことになればいいのに、とさえ思っていますの」
 この大胆すぎる発言に異を唱えたのは褐色の髪とそばかすを持つ女性だった
(ネームプレートによれば「Constance Chatterley」が彼女の名前だ)。
 「私はあなたたちのような社交生活や結婚生活は文明社会特有の虚無だと思います。 ほんとうの女性、ほんとうの男性の間にあるほんとうの結婚は肉体の存在を軽んじる《精神生活者》には一生得られないものだと思いますわ。今になってわかるのですけれど」
 「それはつまり、あなたの後ろにいる森番ことメラーズさんのおかげというわけですのね。あなたは運がいいわ」
と割って入ったのはフランス王制スタイルの大仰なドレスを着た青白い顔の女性だった。
 ネームプレートには「Emma Bovary」とある。
 「世間では、わたくしのことを馬鹿な女だとか田舎者だとか噂しているようですけれど、ひどく限られた運命のなかでわたくしほど真剣に愛に立ち向かった女がいたでしょうか。結婚なんて籤みたいなもの、悪い籤を引いてしまったら気持ちを切り替えなければ。その意味ではコニィ、あなたのやり方にわたくし賛成ですわ」
 ボヴァリー夫人は高価ななめし革の手袋をはめた手を上品に重ねていた。
 その姿を眺めながらダロウェイ夫人は考えた。
 手袋を買い求めたボンド通りのあの婦人洋品店の女店員はなぜあんなに動作が遅かったのかしら。
 大切な人を亡くして気落ちしていたのかもしれない、なにしろ戦争が終わってそんなに経ってはいなかったから。
 何も変わらないようでいて大きなものをなくしたような気がする、あの年の六月のロンドン……『ボヴァリー夫人』を読んだ限りではもっと馬鹿な女だと思っていたけれど(そして、まったく彼女自身のいう通り田舎者だとも思っていたけれど)あの賢そうな額、あの眉、サージェントの絵のなかの人物のようじゃないの……恋人が次々にできたのもよくわかる……でも残念ながら男性を見る目がなかったのね……
 「また“意識の流れ”に埋没されまして?」
 鋭い声がダロウェイ夫人の思考をさえぎった。声のする方へ頭をめぐらせると裸同然の女性が目に入り、度肝を抜かれた。
 「ええっと……あなたは、エマニエル夫人?」
 いかにもそこにいたのはエマニエルだった。
 彼女の名字を知る者はいない。
 夫が面白がってけしかけるという下着の透けたワンピースを身に着けており、それだけでは飽き足らず、右手でショーツを横に押しやり、今まさに自らの手で「張りつめた花芯」を愛撫しているのだった!
 「私が夫以外の男性と関係を持つとしたら……それは私が幸福だから。あの人を愛しているからよ。夫との共犯によって成り立つ放蕩……というほどまだ進んだ考えは持てないけれど、でも……」
 話しながらもエマニエルの右手は規則正しくリズムを刻み、彼女が何をしているか見える位置に座っているダロウェイ夫人、チャタレイ夫人はもとより、チャタレイ夫人の隣りにいるボヴァリー夫人やその隣りのウィンダミア卿夫人、さらにその隣りにいるドルジェル伯夫人らにも、異様な緊迫が走った。
 ある者はよく見ようと席から立ち上がり、ある者は思わずデスクの下から覗いた。
 しかしエマニエルはまったく意に介さず、己のささやかな仕事に没頭していた。
 「……夫を欺くのは、夫が退屈だとか欠陥があるとか復讐したいとか、そんなことのためではないわ。……そうではなく、言ってみれば性の奥義を究めたいという気持ち……誰にでもおありでしょう……私が性の師匠マリオから教わった『異常性』『不均衡の必要性』『数の法則』というエロチシズムの三法則は……」
 眠りに誘われるが如くゆったり流れるエマニエルの独白をふいに破ったのは
「一体全体なんですのん!?」
という頓狂な関西弁だった。
 夫人たちは一斉に振り向き、司会の隣り、ほぼ正面にずんぐりした中年の日本人女性が座っているのを認めた。
 ネームプレートには「Utako Yamanobe」とある。
 「さっきから聞いてたら、性の奥義やの異常性やの言うてはりますけど、話が高級すぎてわたしには何のことやらさっぱりわかりません!」
 彼女が何者なのか、手元の資料を確認する音が場内に響き渡った。
 資料には「Utako Yamanobe : Mrs.Dusk(黄昏婦人)」とあった。
 「エマニエル夫人にしてもチャタレイ夫人にしてもボヴァリー夫人にしても贅沢な悩みとちゃいますか。なんやかんやいうても旦那さんは構ってくれはるんでしょう? もっとはっきりいうたら、してくれはるんでしょう?」
 黄昏夫人の剣幕に、ウィンダミア卿夫人はせわしなく扇を使いはじめた。ロンドン社交界育ちの彼女にこのような粗野な振る舞いは耐えられないのだった。
 しかし、黄昏夫人はひるむどころかますます調子づいてひとりずつ指差し始めた。
 「ボヴァリー夫人、あなた旦那がうだつのあがらない医者やいうて極楽とんぼみたいに浮気ばっかりしてはりますけど、ご主人がかわいそうやと考えたことありますか? ぱっとせえへん人かて心はありますよ。チャタレイ夫人も、半身不随のご主人捨ててイケメンの森番に走ったんでしょう。なんや純粋無垢みたいなキャラクターであなたが被害者みたいに書かれてるけど、男の作者ですからね、信用でけまへん。チャタレイ夫人、あなたのところは旦那が浮気をけしかけてるいう話ですけど、そのマリオとかいう性の師匠に旦那はゲイちゃうかってほのめかされたら慌ててたやないですか。エロチシズムが茶ぁ湧かしますわ」
 「黄昏夫人、個人的な批判はご遠慮願います」
 司会から異例の横槍が入った。
 しかし、黄昏夫人は聞く耳あらばこそ。
 「それに比べたらうちなんか夫婦の会話いうもんがほとんどないですよ。それどころかナニは二ヶ月に一回、私が誘っていやいやいう感じやし、いつも後背位やし、それどころかたぶん京都で浮気してるいう状態です。そんなら妻かて浮気したらええと思いますか? ええ、そうしよ思って娘の家庭教師の大学生やら京都でお茶碗焼いてはる人やらいろいろ会いました。でも、ようせんのです。ようせんのです!!」
 「それはなぜですの?」
 激情には慣れきっているボヴァリー夫人が、すかさず鈴を振るような声で聞いた。
 「なんでかて……なんでかて、それは……」
 「老いを受け止められないからですわ」
 ダロウェイ夫人が代わりに答えた。
 彼女は黄昏夫人のぽてぽてした首に刻まれたシワにテムズ川の流れを見、そこを舞台にしたケネス・グレアム『たのしい川べ』のなかのヒキガエルのトードの台詞を二、三思い出し、それらを充分堪能した後、ふいに現実世界に戻ってきたのだった。
 「確かに、女性にとって老いはおそろしいものですわ」
 ウィンダミア卿夫人は得意のカマトトぶりを発揮して、言わずもがなの発言をした。
 「老いゆうたかて、記憶力とかそんなんと違いますよ。私のんは……あのね、あのー…お乳がタプタプなんです。寝転がったとき腕組まへんかったら横に流れてしまうような状態なんです。お腹もたるんでタポタポやし、極めつけはアソコが……」
 突如、ウィンダミア卿夫人は忙しく水差しの水をコップに注ぎ始め、ダロウェイ夫人は重要事項を確認する必要にせまられて手元の書類を繰り、ドルジェル伯
夫人は後ろの人と話し始めた。
 反対に、ぐっと身を乗り出したのはチャタレイ夫人とエマニエル夫人だった。
 「……ガバガバなんですの」
 「まあ、あなた、なんてチャーミングなんでしょう!」
 叫んだのはマダム・エドワルダだった。
 そこですかさず司会が木槌をふるった。
 「少し錯綜してきましたので、ここまでの議論をまとめます。ダロウェイ夫人は、結婚は夫婦それぞれの自由と独立があってこそだとおっしゃいました。チャタレイ夫人は、精神に重きを置くのではなく肉体に帰るのだとおっしゃいました」
 「つまり、夫婦のイトナミがあってこそ、いうことでしょう」
 「黄昏夫人、しばらくお静かに願います。(と手で制して)ボヴァリー夫人は、たとえ間違った相手と結婚したとしても気持ちを切り替えて……」
 「他にナニの相手を探したらええいうことやね」
 「黄昏夫人、どうかお願いします。チャタレイ夫人は夫の同意のもとに性の冒険を楽しむのもひとつの夫婦のあり方だとおっしゃいました」
 「あほらしい、おとぎ話やわ」
 「(無視して)そして黄昏夫人は、性の冒険を楽しむためには老いを克服してからでなければ困難だとおっしゃいました。どれもとても興味深い意見だったと思います。つまり現代夫人にとって婚姻制度の意義というものは」
 「セックスの相手の確保や。ここにいる人はみんななんやかや言うても不自由してへん、それどころかあっちもこっちもやりたい放題のインランばっかりや! ……そやけど、これだけははっきり言うときます、あなたたちかて老けたら男に相手してもらえへんようになりますよ。男は残酷ですからね」
 黄昏夫人の言葉に、会場は水をうったように静かになった。
 みな、それなりに思い当たるふしがあるのだった。
 チャタレイ夫人がおずおずと、しかし確信をもって言った。
 「クリフォドの……元夫の伯母のベナリィ夫人は以前おっしゃってましたわ、『女というものは自分の生活をするか、それをしなかったことを後悔して生活するか、どちらかです』と。私は後悔したくなかったのです」
 「そこにちょうど運良く森番がいたというわけやね!」
 黄昏夫人の決めつけに、チャタレイ夫人の後ろに座っていたメラーズが半分立ち上がりかけ、周囲の人々になだめられた。
 「きれいごというたかてダメです。男なんかあてにしてたらいつまでたってもおんなじことや。あなたたちは本の、いうたら文学の主人公や思って油断してるか知らんけど、ここらで方向転換せんとろくなことになりませんよ。ボヴァリー夫人を見てみなさい!」
 黄昏夫人の指の先には、羞恥と憤怒でまっ赤になって下を向いているボヴァリー夫人がいた。
 一仕事終えて充分満足したエマニエル夫人が手拭きに指をなすりつけながら聞いた。
 「では、黄昏夫人のおっしゃる方向転換って何なの。私、大抵のことは経験する用意があるわ」
 黄昏夫人はさっと立ち上がり、ゆっくりと周囲を睥睨した。
 「ああ、そう、じゃあ言いますわ。女同士で結婚したらよろしい、いうことです。女二人、助けあって慰めあって仲良う老後を迎えたらよろしい。手始めにチャタレイ夫人とエマニエル夫人が結婚したらええやないの。それで、次の会議までにどんな塩梅やったか実験結果をみんなに報告してよ」
 司会は言われるがままに決を採った。エマニエル夫人、ボヴァリー夫人、ダロウェイ夫人、マダム・エドワルダ、黄昏夫人が賛成し、ウィンダミア卿夫人とドルジェル伯夫人とチャタレイ夫人が反対した。
 チャタレイ夫人とエマニエル夫人の結婚は可決された。
                             (たぶん続く)

初出:randam_butter『matter girl ruins』2010年8月


【本日のスコーピオンズ】

13曲目「Far away
2nd アルバム『Fly to the Rainbow 〜電撃の蠍団〜』(1975)より
たっぷり2分以上あるイントロのギターとスキャットがとても爽やか。
ソフトロックをすら思わせる。
その後、うねうねギターソロと歌が始まるがそれでも爽やかさは健在。
この曲は、あり。

感想は以上です。

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