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キッチン、本屋、熟柿とブランデー

どうにもこうにもやるせない気持ちになったとき、私は文字を打っている。
なんだか書きたくなるのだ、無性に。


書くことと同じように、全宇宙に「やったろか、われい」という気持ちになってしまったときは商店街に駆け込んで、そのむしゃくしゃした気持ちに背中を押してもらって、お肉屋さんでお高めのいい鶏肉を買う。

大事なのは金額を気にしないことで、薄ら目で見ないふりをして、計算などはしない。
お会計のときは、電卓に書かれた数字分を財布から、ただ、出す。
その数字の記憶は、商店街に置いてゆく。

次は、元気のいい店主の声にハッパをかけられる気持ち半分、たじろいでしまう気持ち半分の八百屋さんで、間違いなくどれもこれもおいしい季節の野菜たちと見つめ合い、選ばれし野菜たちを抱え、レジ横の「安い!うまい!」と書かれた380円のマンゴーもついでに購入して帰宅する。
その頃には、「やったろか、われい」が、「う~ん、やったるかあ」くらいにはなっている。

帰宅するや否や キッチンに立ち、先ほど購入した野菜たちを水洗いし、思いのままに切り倒し、お肉に下味をつけ、プライパンに火をつける。


充分に熱したフライパンにごま油を注ぎ、鶏肉を入れたあの瞬間がすきだ。

フライパンの上で静かに熱されていたごま油が、鶏肉を迎え入れたとたんにジュージューとたのしそうに音を立て、ハクレン(という魚)の集団ジャンプのごとく油が飛び跳ね、次第に鶏肉とごま油由来の芳ばしい香りが漂うあの瞬間。


調味料をまわし入れる瞬間はもっとすきだ。

一通り遊び疲れたごま油と鶏肉たちが、控えめにジュー…と唸っているところに、醤油、酒、みりんを入れた瞬間の幸福感たるや。
あの音を、何度ボイスレコーダーに閉じ込めてやろうと考えたことか。
しかし、それではだめなのだ。

音と同時に、外側からふつふつと湧き上がる醤油たちを見て頬を緩め、
フライパンに注いだ初めの瞬間は、アルコールの香りが鼻にツンときて、次第に醤油の焦げた芳ばしい香りに変わってゆく流れを受け止めてこその幸福なのだ。
五感が大事。

この段階で「う~ん、やったるかあ」は、「しかたねえ、全宇宙に幸あれ」という気持ちになる。
あとは、出来上がった「季節の野菜と鶏肉の甘酢炒め」を食らうだけである。

不思議と、このときのご飯のお供はお酒ではなく、新鮮な冷たいお水をがぶがぶ飲みたくなる。

お酒を飲むときは、たのしいときであるべきだ。

たのしいときのお酒は、たのしさ二乗で上乗せされ、たのしくってたのしくって、みんな笑顔になる。みんな幸せハッピー。

かなしいときのお酒は、どんなに飲んでも「かなしい」は消えなくて、プラスで虚しさが押し寄せてくるのでいいことない。

お酒は絶対に楽しく一番おいしい状態で飲みたいので、やけ酒はしない。

これがお酒に対する私なりの向かい合い方であり、マイルール。

お酒だって、そんな飲まれ方されたくない っていってる。たぶん。



雨の日の帰り道は、ふらっと気づいたら本屋さんに寄っていて、大量に本を抱えて帰宅することが多い。
所詮人間、自然には抗えないので自分の機嫌は自分でとるしかないのである。

通い馴れた本屋さんに入ると、紙とインクの混じった匂いが体にスッと入ってきて、四方八方を本に囲まれた時点で、「ただいま!」という気持ちになり、幾分か憂鬱は晴れている。

あとは、以前から気になっていた本だったり、好きな作家さんの持っていない本だったり、タイトルや表紙に惹かれて衝動で手に取った本(タイトルに「たべもの」が入っている本買いがち)だったりを抱えて、レジに行く。
文字通り、抱えきれない量をカゴに入れずに抱えていくから、それを見かねた店員さんがカゴを持ってきてくれたりする。やさしい世界。
(お店に入ったときは、『ちょっとみるだけ』の気持ちで挑んでいるのでいつもカゴを持つことを忘れてしまう)

ちぎれそうなほど重たいレジ袋を片手にぶら提げて、「重てー」と憂鬱な面持ちで、実は内心ワクワクで帰宅するのであった。



休日に知らない町にひとりで降り立ったとき、自ら進んで訪れたくせに、不意に寂しくなるときがある。

早めに起床し一時間ほど電車に揺られて、初めて訪れる町でモーニングをいただいて、それから二軒ほど喫茶店を巡って一息つく。
勉強やら読書やらをし、「夜は、どこでたべようか」と考えているうちに陽が暮れそうなので、おいしいお店が多そうな隣町まで歩くことにする。

歩いているうちに陽が暮れてきて、初めはフィルムカメラ片手にうきうきで歩き始めたこの町が、異世界のような気がしてくる。

「私は一人で何をしているんだろう」という気持ちになってしまったらもう完全にひとりぼっちで、ようやくたどり着いた隣町が意外に栄えている町で、なぜだか妙にがっかりする。

結局、ビルの二階にある常連さんしか知らないような居酒屋の一客として足を踏み入れ、「久保田」を注文し並々注いでもらうも、このままではかなしいお酒になってしまうなと、おいしいお通し(お通しがおいしいお店は間違いない)と海鮮納豆を平らげ、「久保田」を完飲したところでお会計をお願いする。

「おいしかったです、ごちそうさまです。(次は楽しいときに絶対)またきます」と、店主にご挨拶をし、再び町へ出ると、夏の終わりの秋とちょうど半分になった、まだ完全には夜にはなっていない時間帯の無敵と言わんばかりの空気に、この日ばかりは胸が苦しくて、早々に帰ろうと駅に向かって歩き出したときにふと空を見上げると黄色に青い文字でかかれた『BOOK OFF』の看板が目に入る。

耳の遠いおじちゃんがやってる古本屋でも、日焼けして淡く変色した雑誌が並ぶ本屋でもなく、『BOOK OFF』に出逢えたというこの、昔馴染みの友人にばったり遭遇したかのような安心感に心躍らせ、足早に駆け込むのであった。

そういうわけで、どうにか救いの手を差し伸べていただいたおかげで、無事、左手にははち切れんばかりの黒いビニール袋を提げて、悪くない気持ちで電車に乗ることができたのである。

やるせない気持ちに襲われるたび大量の本たちを連れて帰ってしまうために、自室にはまだ読まれていない積読本が山ほどあるけれど、その分もう一度本を選ぶワクワクを楽しめて二度おいしいのでよしとする。



さて、これを書いている今はもう、やるせなさなどどこかにいってしまっている。
単純な人間でよかった とつくづく思う。

どれだけ時間がかかっても、自分の機嫌を人に押し付けるようなことはしたくないのだ。

かなしいことに、どうやら私は睡眠で回復することができないタイプの人間らしく(必要以上に眠るとむしろかなしくなる)、己の尻を自分で叩いて何かしらの行動をしないと回復できないようで。
でも、その何かしらの回復法を知っているので、今日もつよく生きています。


秋は毎年、気が付いたらいなくなっていて、「もう少しいてくれてもいいんでないの」と心寂しい届かぬ声を送っていたらあっという間に冬がくる。

今年は冬に切り替わる最後の一瞬までそばにいてもらうからね、と言っているそばから、今朝 雨に濡れたアスファルトに、大量の橙色の星たちが落ちていたので泣いている。


そういえば、そろそろ「熟柿とブランデー」をいただける時期なのではないかしら。

森下典子さんの『こいしいたべもの』を夏に読んでからずっと心待ちにしていた「熟柿とブランデー」。
ゼリーのように熟した柿に、ブランデーを注いでたべる大人のおやつであるらしい。

思い立ったが吉日、とろっとろあまあまの熟柿を探す旅に出てくるので、今日のところはこのへんでお暇させていただきます。


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