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ネガティブな記憶が、強い欲求に繋がっていたりするかもしれない。

過去、今、未来に思いを馳せるのに毎日忙しい。

今自分がやっていること、これからやりたいことがなんなのかを考えていると、

「なぜ、いつからこんなことを考えるようになったんだろう?」という疑問にぶつかるので、過去を深掘りしていくこととなる。

その作業を、かぜの帽子さんのサポートのもと、行っている。

(かぜの帽子さんにサポートいただいてる経緯は、下記記事の④に記載)


「そういえば、あのとき…」

と何かを思い出すとき、
記憶の海からそれを引っ張り上げ、防波堤に並べて、乾くのをじっと待ちながら、それをぼんやり眺めたり、時には乾くのが待ちきれなくて、足踏みしながら凝視しているような感覚がある。

もしかしたら、一番古いかもしれない、ネガティブな思い出が、ふと蘇った。

私は年中から保育園に通っていたのだが、
途中入園の私は、なかなか馴染めず、よく泣いていた。

ある日、担任の若い女性の先生はお休みか何かでおらず、副担任だったか補助の中年男性のO先生一人だけが見守る中、クラス20人くらいで椅子取りゲームを行った。

最後に2人だけが残った。

ながはしともこちゃんと、
すがぬまともこちゃんである。

すがぬまともこちゃんは、0歳児から通っていて、たくさんお友達がいた。

O先生が言った。
「さぁみんな、ともこ対決だ。好きな方のともこちゃんにつきなさい」

正確な数は覚えていないのだけれど、
ほとんどのクラスメイトがすがぬまともこちゃんを応援する意思を表明した。

私は泣いたか、泣きたいのを我慢したか、そのあたりの記憶が曖昧なのだが、
結局負けてしまい、
その時はさすがに大泣きしたかもしれない。

とにかく、悲しくて、寂しくて、くやしくて、恥ずかしい思い出である。
O先生が大嫌いになった。

だけど、ふと思う。
この出来事から、私は
「人気者になりたい」「選ばれたい」みたいな願望が芽生えたのではないか、と。

もし私がすがぬまともこちゃんの立場だったら、どう思っていたのだろう。

ながはしともこちゃんに申し訳なくて、ひっそりしよう、目立たないようにしようと思ってたりしないだろうか。
なってみないとわからないか。

お恥ずかしい話だけど、
私の目立ちたがりの、でしゃばり根性は、こんな体験から生まれたのではないか、
という仮説である。

ちなみに、この記憶は、今までの人生で、何度か思い出したことがあるもので、初めて思い出したわけではない。

(一度も思い出したことのない古い記憶は、深い海の底に沈み、さすがに取り出すことはできないような気がしている)

インパクトの強い出来事を体験し、それをその後の人生で何度か思い出し、何を思うかが人格形成に影響するのではないか、と自分を見ていて感じる。

ショックだった出来事の「捉え方」が、気質という骨組みに肉付けをして、性格が出来上がっていくような感覚だ。

「私が人気者だったら、みんなに選ばれるともこちゃんだったら、あんな嫌な思いしなくてよかったはずだ…」
そう思っているからこそ、そうなりたいと思ってしまうのではないか。

「もし〇〇だったら、〜〜しなくて済んだはずだ」

これが、私の人生には、やたら多いような気がする。他の方もあるのだろうか…?

同じように、過去の記憶と今の自分がつながった感覚を味わったときには、また書いてみたい。

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