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「国語が得意」と言えなかった人生。

今までの人生で、「国語が得意だ」と堂々と言えなかった。
なぜなら、「他の教科が不得意だから、できるのが国語なだけ。国語なんて、日本人なら誰でもできるっつーの」「国語が好きなわりに、言葉を知らないじゃないか」という手厳しいセルフツッコミを自分に投げかけていたのだ。

本当は、国語がずっと好きだった。

中学時代は、校内新聞を作る編集委員の長をやっていて、その顧問であった国語のおばちゃん先生が大好きで仲が良かった。お元気だろうか。もう80は過ぎているだろう。

また、高校1年のときの担任が国語教師だった。
個人面談で
「長橋、お前入試では国語は満点だったんだぞ。国語の教師を目指せぇ。国公立に行けるように、数学頑張れよ」と言われたことがあったが、数学が1だったし、先生という職業にも興味がなかったので、「先生、私に国公立なんて無理です」と即答した。あの頃、将来どうなりたいかも深く考えていなかった。ただなんとなく過ごしている「今」の連続の先に将来があるんだという感覚しかなくて、長期的展望というものを全く持てていなかった。

長年意識していなかった「国語」というものを最近思い出すことになったのは、小4の長男がZ会のドリルを解くのに付き合うことがあるためだ。

長男は、社会が好きで、国語は苦手だ、という。
彼が苦手意識があるのは、文章題の「この文は、どういうことを指していますか。文中の言葉を用いて書きなさい」みたいな、文章内の必要な箇所からピックアップして、自力で編集する作業に、苦労しているためだった。

「どういうことを指すか、文中より10字で書き抜きなさい」
「この文章から筆者の言いたいことを何か。ア~エより選びなさい」
などだと、悩まないらしい。

長男に対して、「あんたは、国語、別に苦手じゃないからね。筆者の言いたいこと、理解してるじゃん。文と文を繋げて、まとめることに慣れたら、たぶん苦手意識はなくなるから、とにかく問題を解いて慣れるしかないよね」

そんなことを言いながら、そうか、国語って、「筆者が何を言いたいか」を読み解く教科なんだったっけ、などと思い出していた。

そうだ、私はそれが得意だと思ってたんじゃなかったっけ。

中学時代、学力テストの国語で、学年で一人だけ満点だったことがあった。他の教科も含め普段から私より成績の良い友人が、そのテストで1問だけ間違えたようで、「知ちゃん、95点の人は、みんなここの問題間違えたんだよ。よく解けたね」と自分の答案を見せながら声をかけてくれた。
鏡で見ていないからわからないけど、私はきっとドヤ顔を必死に押し殺して会話をしていたはずだ。

「この問題ね!筆者が何を言いたいか、それがわかったから解けたんだ」そんなことを私は言ったような気がする。友人は「へえぇ!すごいね」と驚いてくれた。本当に優秀な人というのは、悔しがったりせずに他人を素直に賞賛できる人なんだろうと、振り返って思う。彼女はその後、北海道内でトップクラスの進学校へ進んだ。

「筆者が何を言いたいか」か。

最近、動画編集の仕事で、2時間の説明会の動画8本から、重要なポイントとなる部分を抜き出して、つなぎ合わせて、3分弱の動画にする、という作業をした。
これが重要ワードだろうな、とか、このワードに繋げるためには、このメッセージを入れたほうが流れがスムーズだよなとか、どういう順番で並べたら説得力が増すかなぁとか、うんうん唸りながらも、そういうのを考えるのが好きなのは、国語好きから派生しているような気がした。「国語が得意」が動画編集の仕事に繋がっているかも、そんな活かし方もアリなのか、となんだか嬉しくなった。

今までの人生、「国語が好きだったのに、仕事にもなんにも活かせてないし、国語好きなんて先生や作家にでもならない限り、意味ねぇや」とどこかで思っていたし、自分を無駄使いしているような気もしていた。そしてそのうち、「国語好きなんて、何の役にも立たないし、他に得意がないだけだし、語彙も少ないし、そもそも得意だなんて図々しいか」とやさぐれていったのかもしれない。

しかし、最近になって、本やnoteを読んだり、映画を観たり、人と話したりして、そこからメッセージを読み取ろうとすることは、国語という学問を土台とした、人間と人間のコミュニケーション学なんではないか、と思い始めている。

「国語が好き、国語が得意。そう思っててもいいね…!」

自分の好きや得意だと思うことを捻じ曲げて卑下する必要なんてなかった。「好き」に素直でいることは、きっと自分の可能性を広げることになるだろうと思う。

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