寂しさから繋がる私の働き方
働き方は育ってきた環境がとても影響している
共働き家庭に長女として生まれた私は、低学年で学童に通っていた。
小学校の敷地内にあるこじんまりとした学童だった。
私が通っていた時代は学童に通う子が少なく、学年でも5〜6人いれば多い方だった。
なので、小学校で仲の良い子は皆、授業が終わるとそのまま下校してしまい、
近所の子供らで遊びの約束をして過ごしていたらしい。
私はとにかく学童が大嫌いだった。
容姿を中傷してくる年上の女子、クラスが一緒ということでグループになり、関わりのない子が仲間外れになる環境。
喧嘩をふっかけてくる男子。
とにかく私の通っていた学童はそんなことばかりだった。
小学2年の後半にもなると、親に頼み込み学童をやめ、
晴れて「鍵っ子」となった。
鍵っ子は自由だった。
遊びたい友達とたくさん遊べたし、友達も増えた。
それに加えて鍵っ子は責任が必要とされた。
小2、3の私は何度アパートの鍵をなくしたことか。
朝、首から下げていたと思ったら、帰ってくる頃には首回りはすっかり何もなかったり。
ある時は、アパートのドアの前で頭が真っ白になりながら、毎日夕方になると妹を保育園に迎えに行ってから私のもとに来てくれる祖母が来るのを待った。
余談だが、
祖母の家は、低学年では歩くのがやっとの とてつもなく急な坂の上に住んでいた。
そこがもう歩ける距離だと言っても遠くて遠くて…
祖母は免許を持っていなかった。
両親が帰ってくるまで、祖母の家で世話になるために、
毎日、夕方祖母と私と妹で、その急な坂をのぼりながら坂の上の家へ行った。
話は戻って、
ある時は少し知恵がついて、隣の大家さんに鍵を開けてもらいに行ったり。
ある時は大家さんが不在で、途方に暮れ、近所の友達の家を尋ねたりもした。
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今考えると恐ろしい状態だった。よく両親はそれで私を鍵っ子にさせてくれたもんだ。
とにかく頼れる大人がいない時間が毎日少しだけ存在した。
子供にとっての1時間は圧倒的に長い。
とにかく「寂しかった」という思い出が今でもある。
そんなだから学生の頃から自分に子供ができたら
親が家にいる環境にしたいとずっとうっすら思い続けていた。
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結婚をすると相手は転勤族の人だった。
そのため、私は定職につくのが難しくなった。
じきに子供が生まれ、両親に頼れない環境で子育てをしている中で、
今後、私が家で仕事をしている環境にしていきたいという思いが強くなっていった。
自分で仕事を作っていくなんて想像もできなかったが、どうしても子供が親を近くに感じられる環境にしたかった。
私の「縫うことが好き!」という感覚は
このために身についたのではないかと思う。
そのぐらい、転勤族で場所が変わってもマイペースにできて、かつ自宅でできる、この刺繍というものを仕事にできて嬉しく思う。
家計には全く貢献できていないが、大切にしたいものを守れている
いや、むしろ守れる環境にさせていただいている。
そんなわけで、私は今でも小学生の時の記憶を頭の中で繰り返しては
この刺繍の仕事をどうにか頑張ろうと思うのだ。
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