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おばあちゃんと私

 私のもう一人の祖母、つまり父の母を紹介しようと思う。父方は祖父の代から農業を営んでいる家である。とても貧しい家で父は保育園にもいけなかったらしい。おやつもなく、畑から野菜を引っこ抜いては食べていたそうである。祖母という人は大地のようにゆったりとした人で、彼女はいつも「何とかなる」を口癖にしていた。私は祖母がいつもお土産にもたせてくれる「芋切干」が好きだった。本当にたまにしかあうことはなかったが、祖母は私のことを気に入ってくれていたように思う。祖母は親戚が一堂に会するお正月などに、何人もいる孫たちを連れて近くの雑貨屋に行くことを習慣としていた。孫たちそれぞれにこづかいを渡し、好きなものを買わせるのだ。皆が『キキララ』などの文房具をみている中、祖母は私を手招きした。彼女は「コナちゃんにはこれがいいと思う」と言いながら、『小公女セーラ』と『ひみつの花園』という本を手渡した。

 正直なところその時の私は皆と同じ『キキララ』がいいと思っていたので、このはからいにありがたみを感じることはなかったが、家に帰って本を読んでみて考えを改めた。その外国のお話しは私の小さな胸をドキドキさせるのに充分だった。『セーラ』を読みながらなぜインドが絡んでくるのかと考えたり、子どもたちだけの秘密をハラハラと見守ったり。濃密な読書体験だった。そして本を選んでくれた祖母に心の中で感謝した。それにしてもなぜ祖母は私にだけ本を選んでくれたのだろう。彼女は本が好きな人だった。長男夫婦に農業を引き継いだ後、自分の畑でこまごまとしたものを育てながら雨の日には読書する、そんな日々を過ごしていた。私たちが一緒に暮らしたことはなかったけれど、お互いにシンパシーを感じ合っているところがあったのだろう。空想好きでどこかのんびりしたところに。

 そんなのんびりとした祖母はいざという時には、とても頼りになる人だった。一番上の娘が大学受験をしたいと父親に申し出た時のことである。祖父は昔かたぎの人らしく、女に大学の勉強は必要ないとその申し出をつっぱねた。それを見逃さなかったのが祖母である。なんと祖父にはないしょで受験させてしまったのである。その娘は大学で教員免許をとり、定年まで小学校の先生を勤めあげた。結局父親も含め、5人中3人の人間が大学にすすんだ。ただでさえ苦しい家計であるのに、どうやって学費を捻出したのだろうと疑問に思うが、祖母はやはり「何とかなる」の精神で実際に何とかしてしまったのである。何より教育というものを大切に考えている人だった。祖母は体の弱い人で晩年は入退院を繰り返していた。私も何度かお見舞いにいったことがある。子どもの頃病院特有の空気が苦手だったので、お見舞いに行くという行為は私にとって必ずしも待ち遠しいものではなかった。そんな私の心情を察したのだろうか。祖母はどんな時でもにこにこして私たちを迎え入れてくれた。いつも前向きで明るく触れ合った人を勇気づけてくれる人、それが祖母という人だった。なぜもっと話をしなかったのだろうと思う。教えて欲しいことはたくさんあった。孫の中でもきっと一番気が合うのは私であったはずだ。様々な思いが去来するが、時すでにおそしである。

 雑貨屋はその後火事で焼失してしまい、跡地には全く別の店が建った。そして祖母は子どもたちに囲まれる中、病院のベッドで息をひきとった。周りの人の話では、死の間際彼女はこういったらしい。ああ、いい人生だった、と。そこにはしっかり生きた人の確かな息づかいがあったという。

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