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チャーリィは私

 高校2年生の頃の話である。『アルジャーノンに花束を』を読み終えた母は私にこう言った。主人公のチャーリィ・ゴードンは私だ、と。私はこの物語を読んだことはなかったが、大方のあらすじは知っていたので母のこの発言に違和感をもった。チャーリィ・ゴードンは生まれつき脳に障害のある男性で、彼は知能を高める実験の被験者となる。実験は成功したようにみえたが、同じく実験をうけたアルジャーノンというねずみは急激な変化に耐えられずに死んでしまう。その後を追うかのようにチャーリィの知能も元に戻ってしまうのである。特に知能に障害のない母親がなぜこの物語を読んで主人公の男性に自分をなぞらえるのか、私にはいまいち分からなかった。その意見は実際に物語を読んでも変わらなかった。

 確かに素晴らしい小説だと思う。こんな設定を思いつく人、それを文章として実体化させられる書き手はそういないだろうと感じた。ただこの物語を読んだ高校生の私からでてきたのは障害に偏見をもってはいけないとか、人には分け隔てなく優しくとかそういう感想ばかりで自分事としてはどうしても捉えられなかったのである。皮肉なことだが今の私には、この物語が障害とかそういう枠にはめられるような偏狭なものではないことがよく分かる。ある人は知能が下がっていくチャーリィに老いゆく自分を重ねるだろう。またある人は、真の友情の在り方について思い巡らすだろう。私としてはこの物語は愛の物語なのだと感じている。チャーリィは知能があがっても自身の母親との間に関係を築くことができない。それどころか知能が高まるにつれ彼は周囲の人間との間に壁をつくり、孤独に苛まれるのだ。チャーリィは物語の中で知能についてこう述べている。「知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多い」と。人間的な愛に裏打ちされた基礎、すなわち思いやりの心が育っていない上で知識を積み上げても、それは苦痛にしかつながらないのだということを彼は指摘している。愛の伴わない知性は役に立たないのだと。

 私が高校生だった頃、ちょうどその頃からである。母はアダルトチルドレンに関する本を集め読みふけるようになった。私が母親との関係にいきづまりを感じていたように、母親も同居していた自身の母親との関係に悩んでいたのである。そのような環境の中で私は自然と心理学を学んでみたいと思うようになっていった。そして心の片隅では信じていた。良い成績を収めればいつか母の関心をかえるのではないか、と。いつか自分に振り向いてくれるのではないか、と。まるでチャーリィと同じである。結局は私も途中で母の望み(このようなものが本当に存在したかどうかは疑わしいが)をすべては叶えられないことを悟った。私の頭はあまり暗記向きにできていなかったのである。空想や楽しいことで頭の中がいっぱいになってしまう状況を、どうしても止められなかった。母も本来はそういう人間だった。いつも空想で頭の中がいっぱいでチラシの裏に漫画ばかり描いていたそうである。そんな母をみて祖母はくだらないことをしてと馬鹿にしたらしい。その祖母もしつけの一環として父親にぶたれて育ったそうである。祖母という人は母に輪をかけて頭の中が忙しい人で、特に身内に対して思いやりの心を持たない人だった。彼女はよく読書を暇人のすることだと馬鹿にしていた。私はそんな祖母を心の中で気の毒に思っていた。結局のところ、皆チャーリィなのだ。私も母親も、そしてその母親も。

 3人の女たちはついに真に分かり合うことはなかった。最後にそれぞれに花をおくって終わりにする。お母さんに赤いカーネーションを。お祖母さんに黄色い野菊を。そして私には白いガーベラを。


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