連載小説『舞い落ちて、消える』episode.34 2007/5/7③

 僕はその言葉の意味を理解するのにしばらく時間が必要だった。
「それは、朝美の他にもう昔から彼女がいるっていうことだよな」
光浦は、当然、という顔で頷く。構造は理解できた。行動も理解した。しかし、そこに至るまでの心情も何も理解することができない。大切なことが何一つ見えてこない。
「ちょっと待てよ、なら何でそんな奴と朝美が噂になるんだよ」
今度は、そんなこと知らねえよ、という顔になった。光浦の表情は読み取るのに知力を必要としない。
「わかった」
僕はそれだけ言うと教室を出ようとする。光浦は慌ててそれを止める。
「どこ行くんだよ」
「そんなのどこだっていいだろ!」
「ちょっと待てって、お前、竹下のところに行く気だろ」
どうやら表情から気持ちが汲み取れるのは僕も同じだったらしい。人のことを悪く言うもんじゃない。
「だったら何だって言うんだよ」
「待てって、今行ってもお前の損にしかならねぇって」
思ったよりの迫力に押され、僕は一度勢いを失う。大声をあげてお互い息を切らしかけている肩を大きく上下に揺らして、
「どういうことだよ」
と光浦に問う。
「相手はサッカー部のキャプテンだぞ。多分人望もある。ただでさえお前は特クラで疎まれてるんだ。やり方を間違えたら、お前、学校から居場所がなくなるぞ」
僕にしてみたらそんなことどうでも良かった。僕のクラスは特クラと呼ばれて揶揄されている。確かにそれだけで不利だった。けれど、僕は自分の居場所なんてどうでも良かった。朝美のことをどうする気なのか、それを聞きたかった。不誠実であればぶっ飛ばしてやりたかった。ただそれだけだった。
「それに、ただでさえ、お前、河村さんと気まずいんだろ。下手するともう二度と修復できなくなるぞ」
それは困る。ただでさえ今の状況に何もできずに半ば諦めて時間や相手の反応が変わるのを待っているという状態なのに、これ以上悪くなれば、朝美と関係を修復するどころか、もう二度とまともに会話をすることもできなくなるかもしれない。脳裏に朝美との日々が蘇る。待ち合わせ場所で紫陽花を見つめるあの表情が僕の心を強く掴みかかる。僕はあの日々にいつか戻りたいと考えているのだった。そしてそれが一番の望みだったのだ。
 僕の表情を汲み取ったのか、光浦は安心したように落ち着いて僕に言った。
「だから、まずは光浦がどんな奴なのかを調べよう。そしてこちらの出方を考えるんだ。弱みを握ろう、とまでは言わない。けれど、できるだけお前に不利にならずに済むような情報を集めて方法を考えるんだ」
僕は初めて光浦に感謝したかもしれなかった。

 けれど、光浦も僕も相手が不利になるような情報を集めることはできなかった。それどころか、調べれば調べるほど竹下が厄介な奴だということがわかった。いつも調子が良く、テンションだけで乗り切っているような人間。サッカー部のキャプテンも別にプレースタイルや仲間の尊敬を集めているからではなく、その調子の良さと人気だけで選ばれたというものだった。それであれば、周りにそんな彼を疎ましく思っていたり、キャプテンになれずに妬んだりしている人間はいないだろうか。しかし、そんな人物を探し当てることができなかった。竹下は俗に言うイケメンで女子からは確かに人気があった。だから女子からこちらの味方を見つけることは容易くないだろうと思っていた。けれど、男子なら、男子ならこんな人間を野放しにしておくはずがない。何であいつだけ、調子に乗りやがって、と思う人間はきっといるはずだ。でも見つからない。誰も竹下のことを悪く言う人間がいない。何故だ。もしかして竹下は僕らにはわからないほどのカリスマ性があると言うのだろうか。
 しかしその疑問は調べていくうちにすぐに解消された。それは竹下がうちの学校の進路主任教師の息子であるという理由だった。うちの学校の進路主任は板野という女性教師だった。年齢は40代くらいであろうか、とても豪快でうちの進路指導を一手に引き受けていた。特クラの生徒でない生徒にとって、指定校推薦と呼ばれる学校推薦は大学へ行くための最も楽で確実な手段であった。僕らは指定校推薦を利用しようというものなら教師からも後ろ指をさされてしまうが。それ以外の生徒で見込みがない生徒はどんどんと指定校推薦に流し、進学実績を確保するのだ。うちの学校は特クラ以外の進路指導や受験指導に熱心ではなく、自力で難関大学に行くのは至難の業だった。だから、何とかして学校推薦の枠を取らなければならない。板野はその学校推薦の決定権を持っている、と専らの噂だった。だから特クラ以外の生徒は皆板野のご機嫌を伺うような態度をとっていた。それに加えてここ数年、板野が気に入らなかった生徒が学校推薦の枠から漏れた、という噂がどこからともなく静かに広がり、板野の権力は絶対的なものになった。
 そんな板野が竹下の母親だった。苗字が違うと思って知りもしなかったが、板野が結婚後も旧姓のままで仕事をしているだけだった。僕は全てに合点がいった。だから誰も竹下のことを悪く言わないのだ。竹下から板野に悪く言われることを避けるために。もしかしたらサッカー部のキャプテンも忖度で決まったのかも知れない。いつも調子の良い態度であるのも、自分の境遇がわかっているからではないだろうか。
 
 僕は俄然怒りが込み上げてきた。竹下に何とか言ってやらなくては気が済まなくなったのだ。


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