連載小説『舞い落ちて、消える』episode.38 2007/5/9④


「何ぼーっとしているんですか」
さくらの一言で我に還る。さくらと佐藤さんは両手にコンビニの袋をぶら下げて少しご機嫌に帰ってきた。これから危険なことが待っているかもしれないというのに何とも呑気なものだ。けれど、それくらいが僕にとっては丁度良いのかもしれなかった。さくらはいつも必要以上に明るくしないし、必要以上に深刻にもしない。だから僕はさくらに相談をしたのだろう。一緒に深刻になられたら、僕はきっと今頃精神的に潰されていたに違いない。さくらはテーブルに買ってきたものを並べた。そして僕に食べるものを選ぶように促す。どうでも良いと思いながら、それでもお腹は空いている。さくらはきっとドリアを選ぶだろう。ライブの賄いでドリアが出るとトーンが1つ上がるのだ。だから僕はグラタンとおにぎりを選ぶ。似たようなものを買ってきている時点で、きっとどちらかは自分が食べられる算段なのだろう。さくらは少しだけ嬉しそうな顔をしてその後にドリアを選んでいたので、僕の選択は間違っていなかった。
 それから僕たちは1つのテーブルで食事をした。時折冗談を交えながらたわいのない会話で過ごす。傍目にみれば、この3人がこの後に歌舞伎町で危ないとされているクラブに潜入するようには見えない。この幸福感に背中を押されたような気がして、僕はこれまでのことを2人に話した。朝美との出会いから高校時代のすれ違いのこと、今回の経緯の説明、そして再会をし、記憶を取り戻すために努力をしたけれど、上手くいかずに逆にすれ違うことになってしまったこと。そして、そのすれ違いのきっかけになった不審な連絡が朝美や光浦たちに度々きていたということ。一度言い出したら、決壊したダムのように言葉が溢れて止まらなかった。これまで誰にもここまで詳しくは話さなかった。2人は静かに、そして真剣な顔をしながらも笑顔で聞いてくれた。さくらなら笑顔で最後まで聞いてくれると思ったからだ。

「にしても生徒会選挙で勝負だなんて」
佐藤さんが驚いたように呆れたように笑う。
「他にも勝負の方法を考えたんですけどね、いや、サッカーなんて敵うわけがないし、勉強ではフェアじゃない」
確かに、というように2人が頷く。
「竹下が生徒会長に立候補しようとしているのは噂になってましたからね。まぁ結果は負けましたが」
自虐になりすぎないようにさくらが口を挟む。
「中村さんって変に無茶するところは昔から変わらないんですね」
「無茶って?」
「中村さんの話を聞く限り、その竹下っていう人はサッカー部のキャプテンで人気があって、しかも親が進路の主任なんですよね。まともに勝負する相手じゃないですよ」
「いや、そうでもないさ」
 確かに竹下が圧倒的に有利だった。正面切って勝負を挑む人間なんておらず、選挙は僕と竹下の一騎討ちになった。けれど、それは僕には好都合だった。そうなれば良いと思っていた。当時の僕には勝算があった。全校生徒は各学年400人の1200人。そのうち特クラの生徒は各学年80人の240人。普段虐げられている特クラの生徒を味方につければ240票は入る。過半数まであと361票。同じ2学年では特クラ以外の票はほとんど見込めないだろう。竹下の権力はもはや学年じゅうの誰もが知っている。強烈なアンチがいたとしても1割が関の山。30票くらいにしかならない。
 けれど3年生は違う。もちろん竹下は容姿も良いので単純に好かれている面もあるだろう。しかし、3学年は竹下の親である板野を恐れて「いた」のだ。推薦のために板野にしたくもないおべっかを売り、竹下にも気を遣う。相当心の中にストレスが溜まっていたに違いない。普通クラスは指定校推薦の枠が取れるか取れないかで運命が大きく変わるのだ。しかし、それは指定校推薦の枠が決まるまでの話。生徒会選挙が行われる11月には既に指定校推薦の枠は決まり終わっているのだ。枠さえ確保してしまえば、著しく問題行動を起こしさえしなければ安泰である。板野を恐れ、竹下に気を遣う必要がなくなる。そうすれば、むしろ今まで恐れ、気を遣っていたぶん、竹下に反旗を翻すのではないか、と考えた。実際そういった声は既に指定校の枠が決まった10月頃から聞こえ始めていた。3年の普通クラスから7割の支持を得ることができれば、200票の確保が出来る。残りは130票。1年生にはまだ竹下の権力は広がっていない。誠実に選挙活動をすれば、1年生の普通クラス320人のうち半分くらい味方にすることができるかもしれない。そうすれば僕の勝ちだ。
 だから僕は同学年は捨てて、3年と1年に向けてのみ選挙活動を行なった。3年には権力に立ち向かう市民革命家のような立ち回りをし、1年にはこの学校をどうしたいのかを具体的なプロセスを示しながら誠実に行なった。竹下は元から人前に立ち目立つことでチヤホヤされたいタイプだったらしく、生徒会長になるのもその延長であった。だから具体的な学校の将来像などまるで考えていないことは情報で入っていた。情報通り、竹下は取り巻きを連れ、テンションだけで乗り切る選挙活動を行なっていた。

「意外と策略家なんですね」
さくらが感心したように言う。
「実際、作戦は上手くいっていたよ。手応えがなくて焦った竹下は母親に泣きついていたからね」
「何かあったんですか」
「担任経由で脅しをかけてきたよ」
 
僕を呼び出した担任は単刀直入に
「生徒会長になったら勉強する時間がなくなるから、今からでも降りた方が良い」
と言った。立候補の書類を提出した時には何も言われなかった。むしろ応援されたくらいだ。
「成績が落ちてしまったら、特クラから普通クラスに落ちてしまうぞ」
1年に一度、成績不良者は普通クラスに落とされてしまう。しかしそれはクラスで最下位を取り続けてしまうくらいの成績不振の場合だ。
「僕はこれまでもクラスの中で半分より上にいますし、選挙活動に入って忙しくてもキープできています。先生もそれはご存知ですよね」
成績のことを言われるのは想定内なので、僕は必死で勉強を続けていたのだ。そうなんだが・・・と担任は言葉を濁すと、急に僕の耳元で小声で言った。
「悪いことは言わん。選挙は降りた方が良い」
僕は直感で板野が関わっていると理解した。
「降りないとどうなるんですか」
「まだどうなかはわからんが、万が一選挙に勝つようなことがあれば、お前は普通クラスに落とされる」
「それは板野さんからの圧力と捉えて良いですか」
「それは・・・そんなことをオレの口から言わせるな」

「ひどい」
さくらはまるで目の前で自分が虐げられているかの音頭で怒っていた。
「向こうも相当焦っていたんだと思うよ。他にも板野は全クラスの担任に、生徒が自分の息子に投票するように仕向けろと言っていたようだし」
「そんなドラマみたいなことが実際にあるんですね」
佐藤さんは別の部分で感心しているようだった。
「田舎の狭い社会ではよくあることですよ」

 僕は覚悟を決めた。絶対に最後まで戦い抜こうと思った。担任は最後まで僕の身を案じてくれた。普通クラスに落ちたら最後。普通クラスの授業内容では良い大学は望めない。かといって指定校推薦は板野が許すはずがない。予備校のない田舎に住む僕が学校に頼らずに独学で入試に挑むのは無謀だ。担任の心配は嫌というほどわかる。でも、それ以上に朝美を譲りたくなかった。一度すれ違ってしまった朝美とこれ以上離れるわけにはどうしてもいかなかったのだ。
 だがその覚悟と心配は結果として杞憂に終わってしまった。竹下と一騎討ちになった選挙戦は僕の敗北という結末を迎えてしまったのだ。最終的に僕と竹下の得票数は10票の欠席票と無効票を除いて591対599。たったの8票差だった。

「話が長くなってしまいましたね」
僕たちはとうに食事を終え、いつの間にか話し込んでいた。時計は今日を終えようとしている。
「そろそろですね」
窓を少し開けた外からは歌舞伎町の喧騒が入り込み、佐藤さんの声が微かに響く。
「無茶はしないでくださいよ」
念を押す声は重みを増し、その言葉で僕の心臓の鼓動が高まっていくのがわかる。
「気をつけてね」
というさくらの声を背中に受けながら、僕は部屋を後にし、裏口から外に出る。さっきまで窓の外にあった世界が眼前に広がる。音が全て鼓膜にまとわりつく。気持ちの悪い空気に僕は吐きそうになる。けれども僕はクラブハウスに向けて歩き出す。
 僕の作戦は完璧だった。1年でも3年でも僕は予定通り、いや予定以上の票数を得ることができた。僕と竹下の差は約300票。この差なら例え2年では不利でも逃げ切れるはずだった。
 けれど2年の票数は36対364。想定以上の惨敗だった。味方になってくれるだろう特クラ80人は、僕や光浦を含む数票以外は全て竹下の票に流れていた。
 敗れた差は8票だったけれど、明暗はくっきりと分かれた。激闘を終えた2人は互いを認め合い・・・なんていうのは物語の中だけの話だ。僕たちはその後もいがみ合い、嫌い合った。通例選挙に敗れた候補者は、会長により副会長以下幹部に推薦される。しかし竹下は僕を選ばなかった。僕が当選しても、竹下を選ばないつもりだったからどうでも良い。朝美は副会長に推薦され、竹下と朝美は最早校内公認のカップルになっていた。

 その後、僕は選挙の敗因を光浦から知ることとなった。特クラの生徒さえ予定通りに僕に投票していれば、僕は勝てていた。その特クラの生徒に竹下に投票するように呼びかけた人物がいたのだ。

 朝美だった。

 朝美は僕に投票しないように呼びかけ、そして竹下に投票するように働きかけた。彼女の美しさと、凛とした姿と、普段の真面目さでほとんどの生徒が彼女に従った。朝美のために行った勝負は、朝美によって勝敗が決まった。票数なんて関係ない。僕の完敗だった。

 あの時、朝美はどんな気持ちでいたのだろうか。クラブハウスに近づくたびに、僕はもう一度朝美に近づいていく。


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