連載小説『舞い落ちて、消える』episode.30 2007/5/4

2007年5月4日

 あれからは完璧だった。朝美の母親に今後の方針の話をした。驚くほどスムーズに了解を得ることが出来た。それから僕は予定通り、核心をつかないような思い出話を朝美とし続けた。時折辻褄が合わなくなるようなところは正直こちらで作ることもあった。作った部分は後でメモを取り、矛盾が生じないように気をつけた。信憑性を高めるために、僕は作ることだけでなく、わからない、と言って知らないふりをすることも心がけた。そうして僕はまたあの家族と信頼関係を築き、そして新しい思い出を構築していった。このまま上手くやり続ければ、当面は朝美と一緒にいられるだろう。
 朝美の表情は再会した時よりもずっと穏やかに見えた。白い世界の中で彼女は彼女として生きる覚悟をしたのかもしれなかった。記憶が戻らなかったとして、戻ったとしても、ただそこにあるものを受け入れていく、そんな目に見えた。朝美は僕と話していることを毎回日記のようなノートに書き記していた。話しながらメモを取り、そして時折見返しながら僕と話を進めていく。3月から始めた僕と朝美の思い出巡りは、途中で中断を挟みながらも、もうすぐでノート1冊分が終わろうとしていた。

 部屋に入ると、部屋の明かりはついていなかった。まだ午前中であったこともあって、窓の外から光が入ってきているものの、薄暗い部屋に差し込む光だけが部屋を照らしていて、不思議なコントラストを生んでいる。朝美は僕が部屋に入ってきても何も言うことなく、机に蹲るように座っていた。僕は朝美に声をかけたが反応がない。眠っているのか、一瞬僕はそ思って朝美に近づいてみたけれど、そうではなさそうだった。不規則で小さな呼吸音がする。どうしたの、僕が何度声をかけても朝美は僕の声には全く反応しない。この部屋で僕の存在がないような気がしていた。僕は確かにここにいるのに、僕はここにはいなくて、ブラウン管越しにこの部屋の映像を見せられていて、僕は何かのきっかけに実態のない状態で映像の中に入り込んでしまったのではないだろうか、そんな風にすら思えた。

「竹下君って・・・誰ですか」
やがてようやく朝美が口を開いた。僕はその名前を知っている。けれど決して口にしなかった名前。朝美の口から出てくるとは夢にも思わずに、僕は何も反応出来ずにいた。
「竹下陽太君です・・・知ってますよね」
聴こえていないと思っているのか、朝美はもう一度そう言った。
「・・・急に名前を言われてもわからないな」
「嘘、知ってますよね・・・サッカー部のキャプテンだった」
どうして朝美が知っているのだろうか。竹下のこともサッカー部だったことも卒業アルバムを見ればわかるかもしれない。けれどキャプテンだったことまでは知る由もない。僕は急に後頭部を殴られたような気持ちになって、二の句が継げずにいる。
「サッカー部のキャプテン・・・あぁ、確かにそんな名前だったかもしれない」
絞り出すように言うのがやっとだった。なんとか声色に平静さを混ぜ込む。
「でも、どうして君がそんなことを知っているんだい」
自分の心臓の音が自覚できるほど緊張が僕を支配している。
「昨日、電話がかかってきました」
電話というフレーズに僕は反射的に、誰、と訊いていた。けれど朝美は、言えません、と強く言った。
「私は高校時代に竹下陽太という人と付き合っていた、と。その人はサッカー部のキャプテンだった、って」
電話と聞いて僕は朝美の母親と諏訪のやりとりを思い浮かべたけれど、諏訪が竹下のことを知っているはずがない。朝美の周りで何が起こっていて、僕がどうすればいいのか、全くわからなかった。
「そうだったのかもしれないね・・・僕は知らなかったけれど」
苦し紛れに放った保険がこんなところで役に立つ。数日前、僕は朝美に言っていた。高校時代は「僕が知る限り」のことしか知らない。もしかしたら僕の知らないところで君は誰かと付き合っていたかもしれない。僕はそれを使うことにした。
「誰が教えてくれたのかは知らないけれど、そうだったんだね。ごめん、僕が知っていれば良かったんだけれど」
恐らく誰が聞いても違和感のないものだったと思う。僕は失敗しなかった。
「・・・本当だった」
一瞬の沈黙の後で朝美が呟いた。
「中村さんは私に嘘をつくんですね・・・信じてたのに」
「何を言っているの」
「その人が言ってたんです。中村さんは私と竹下君のことを知っているって、けれど、中村さんは知らないふりをするって」
「だから」
「私は!・・・信じていたんです。中村さんは私に嘘をつかないって」
俯いていた朝美がようやく僕を見る。強い目だった。鋭い目で僕を睨んでいた。睨んでいた目が潤んでいた。朝美は泣いていた。
「ちょっと待ってよ、僕は知らないよ、竹下? 僕は何も繋がりはない、話したこともない」
「嘘です、中村さんは知っているんです、そう言われたんです」
泣いている朝美に狼狽えながら、それでも僕はこの状況をどうにか切り抜けないといけなくて、言葉を探した。探せば探すほどわからなくなって、僕はその電話の主を恨んだ。どうして僕がこんな目に遭わないといけないのだろう。僕は朝美と一緒にいたかっただけなのに。
「大体、その電話の人は誰なんだよ。誰かも教えてくれない奴と僕のどっちを信じるんだよ」
電話の相手への怒りでつい言葉が強くなった。言い終わった後で朝美が固まったことに気づいた。僕は、しまった、と思った。でも遅かった。朝美の目は義眼のように光を失い、ただ表情を失った頬に涙だけが伝っていた。
「そんなの・・・わかんないよ・・・何でそんなこと言うの・・・私は・・・わからないのに!」
出した言葉はもう取り返せない。言葉にする前に咀嚼すれば良かった、そして飲み込めば良かった。
「私・・・わからないの、全然わからないの、ねぇ私は誰? 私は本当に河村朝美なの? ねぇ、教えて、私は誰?」
朝美は机に置いていたノートを乱暴に手に取った。
「こんなに書いても、話を聞いても、何も思い出せないの、わからないの! こんなに書いても・・・ねぇ私は誰? 誰なのよ!」
こんなの、こんなの、と言いながら朝美はノートをビリビリに破り出した。破りながら朝美はもう言葉にならない声を出して、最後には奇声のようになっていた。かろうじて判別できる「わからない」という言葉を繰り返しながら、朝美は破ったノートを床に叩きつけて、ベッドに何度も拳を打ちつけ出した。
 僕はその様子をやはりブラウン管の向こうのように見つめていた。目の前で起こっていることは目の前ではなかった。そうではないと思いたかった。これは間違いなく僕が引き起こしてしまったことだった。僕が朝美をこうしてしまったのだ。

 音と奇声で母親が慌てて部屋に飛び込んできた。僕は何も言えなかった。とりあえず部屋を出るように言われて、僕は部屋を出る。もう僕は二度とここに来ることはないかもしれない。今更になって後悔が僕を襲う。元には戻らないのだ、という事実が光の差す部屋で闇になって僕を照らしている。部屋を出る前に僕はもう一度振り返った。朝美は尚も奇声をあげながら暴れていた。必死で抑えようとする母親を振り解こうとして、ビリビリに破ったノートの切れ端が朝美の手からぱっと舞う。白い部屋に舞い落ちる切れ端を見ながら、僕は朝美のことなんて何もわかっていなかったのだと悟った。

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