そうか、自分のためだったのか

子どもに勉強をさせるとき、しつけをするとき、
ついつい、子どものためだと思ってしまう(声に出てしまう。)。
でも本当は、それが子どものためではないことを私は知っている。

子どもに勉強させるとき、しつけをするとき

子どもに勉強してほしいと思うとき、
ちゃんと勉強できれば、学校で恥をかかないとか、
将来いい学校、いい大学に入れたら、とか
いい学校に入れれば、一流企業に就職できて、とか
ついつい、自分が子どもの頃に親から言われた価値観を押し付けてしまう。

現実問題として、子どもが大人になるとき、
宇宙が消滅していない保証はないし、
地球がなくなってる保証もないし、
国が存続している保証もないし、
親世代の価値観が通用する保証なんてまったくない。

そんなあやふやな価値観や考え方しかできないにも関わらず、
私達は、子どもの将来を、自分のごくわずかな経験の中から考える。

これは、親の想像力の限界だ。
なんの保証もない将来に子どもが幸せになれるかなんて、
親がどうにかできるものではない。本当は。
子どもの人生を決められるって思うのは思い上がりだ。

子どものため、子どもの将来のために、と考えるのは、
親が自分の能力を過大に評価し過ぎている。思い上がりだ。

解釈のベクトルは時間を遡る。

自分の過去について思いをはせるとき、
過去の自分を肯定できるか、否定するのかは、現在の状態に強く依存する。

平たくいうと、今が幸せならば、過去の辛い体験も肯定される。
あの辛い体験があったからこそ、今があると考えられる。
今が不幸ならば、どんな幸せな幼少時代を過ごせていても否定される。
あのとき、甘やかされたから今ダメになったと思うかもしれない。

つまり、子ども時代が幸せだったかどうかは、子ども時代を思い出すとき、
その時の状態に依存するわけだ。
そうなると、子どもが子ども時代を幸せだったと思えるかについて、
親ができることはほとんどない。
親が死んだ後、おじいちゃん、おばあちゃんになった子ども達が、
幸せかなんて知りようがないし、コントロールのしようもない。

やはり、親は無力なのだ。

それでも勉強を教えるし、しつけもする。

今までの主張と違うじゃないかと思われるかもしれないが、
そんなことはない。
私は、子どものために勉強を教えるわけでもないし、
しつけをするわけでもない。

これは、親として、考え得る最高のことを、
子どもにしてあげたいと思うからだ。

子どものためじゃない。ただ、私がしたいからそうするだけだ。
もちろん、子どもには、私の言いなりになる義務はない。
勉強に付き合ってくれれば、ありがとう、だし、
反発されれば、まぁ、そういうもんだよなと思う。
だって、私がしたいことに付き合ってもらってるんだから。

子どもが将来何になるのか、何に幸せを感じるのか、
そんなものはわからない。
でも、親として、子どもには幸せでいてほしいし、
子どもの幸せそうなその姿を見ていたい。感じていたいのだ。

これは私自身の欲求であって、子どものためではない。
そう、すべては、自分のためだったのだ。
子どもが幸せそうに笑っている。
その瞬間を味わい続けたいがためだけに、色々考えて思い悩むのだ。

お読み頂いありがとうございます。記事が役に立てばうれしいです。このエリアまで読んで頂いた方が、これまでもこれからも幸せでありますように。