己の味方は己のみ~Prayer Xから今を生きるあなたへのメッセージ~
Prayer Xとの出会い
「一体全体何を信じればいい?」
このフレーズを聴いた私は、心がぎゅっと締め付けられるような感覚と虚無感に襲われた。
ハっとした。
冒頭部分のフレーズはKing Gnuの「Prayer X」という曲の歌詞である。
アニメ「BANANA FISH」のエンディングテーマであり、そのストーリーに基づいて作られた楽曲である。
先に断っておくが、私はこのアニメを見たわけではないため、今回はその内容については割愛する。
だが、コメントを見ると、切ないけどまた見たくなるような作品だった、などというような声が多かった。機会があれば私も見てみようと思う。
この話はさておき、、
念のため1つ、
「プレイヤー」と言えば、多くの人は「Player」「選手」を思い浮かべる事が多いであろうが、よく見るとここでは「Prayer」「祈り」の事である。
つまり、「Prayer X」誰かわからない、何者かによる祈り(崇拝)という事だと推測される。
Xは不特定多数という意味も込められているため、計り知れないほど多くの人々、つまり、世間という意味にも捉えられる。
たまたま何らかのご縁があり、この楽曲に出会え、MVを見たのだが、初見の感想としては、一言でいうと何とも不気味であった。
この曲に出会った詳しい経緯については、また別で書くつもりだ。
いや、書くかもまだ決めていない。
話を戻して、、、
しかしよく見ると、歌詞も含め、今の音楽業界の惨状であり、もっと言うと私たち現代人の生き方に通ずる教訓じみた内容なのではないかと考えるようになった。
今回はこの「Prayer X」が与えてくれているメッセージについて私の見解を述べていく。
私の目に映るPrayer X
今の音楽業界の惨状及び私たち人間の生き方の教訓を示している点について述べる前に、まずはこのMVについての私なりの考察を示しておこう。
モノクロ調のMV。
メインの登場人物は、ピアニスト。
モノクロなのになぜかこのピアニストの髪色だけが黄色なのが意味深。。。
終始暗い表情。
さらには観客の前で演奏をしていても、心ここにあらず状態。
その後に出てくるたくさんの口裂け女を彷彿とさせる化け物のような観衆が、そのピアニストを拝み、崇めるという何とも不気味な構図。
このピアニストは称賛されているはずなのだが、ピアニストの表情は今にも消えてしまいそうなほど暗い。とにかく暗いのだ。
一体なぜ。。
それは彼が本当に創りたいものと世間が求めているものに何らかの「ズレ」があるからなのでは。。
「自分とは何なんだ」「自分は本当は何がやりたいんだ」「自分が表現したいものは何なんだ」
もちろん、世間の求める感覚、曲調をくみ取り、それを取り入れることで売れてゆき、それと同時に多くの人から認められるというヒットまでの流れは言うまでもないし、否定もしない。
だが、それと同時に浮き出てくることとして、
誰かも分かり得ない万人受けのために、自分の音楽を塞ぎ込み、犠牲にすることで世間から拝め称えられているという現状である。
「今認められている自分、この楽曲、演奏方法は本物の私のものなのか」
今まで自分なりに考え、練習し、キャリアを積み上げ、成長していき、それらによって自分が得たもの、または生まれながらにして自身が持っているものがあるはずなのに。
今まで頑張って、必死に食らいついて、もがいて生き残ってきたのは自分自身なのに。
何故か感じるその矛盾、、賞賛されているのに。
「これは売れるために自分の音楽を捨てた虚構に過ぎない」
という考えが心の奥深くに刺さってしまっているのであろう。
という歌詞にもあるように、
「もはや世間に自分の心が支配されているのではないか」
「作曲する手や脳が何者かにハッキングされているのではないか」
「なぜ、世間は嫌がらせかのようにこの偽りの自分と言っても過言ではない何かを拝み崇めるのか」
それにより、創作活動を行う際に自分自身から湧き出てくる感性や個性、方向性に蓋をし続けることとなるというのに。
蓋をするだけならまだあけることができる。
あけて軌道修正できればそれでいいのだが、、
世間からの圧力、価値観、評判という名のコンクリートを流され、それらが固まってしまえば、それを簡単に打ち壊すのはなかなかの至難の業となる。
最終的にこのピアニストは、崇拝していた口裂け女のうちの1人にナイフで刺され、それを自分で抜き、ピストルで自決してしまう。
みんなが拝み崇める中、1人だけがピアニストに向かい、彼を刺したのだが、私はこのように解釈した。
拝み崇めている観衆のうち1人が世間を代表し、世間の好みはこうなんだ!こういう音楽を私たちは求めているのだ!というような圧力とも言えるナイフを刺した。
刺さったナイフを自ら抜くという事は血が流れる(世間からの評価は下がり、売れなくなる)ということでもあり、それにも関わらずそれを抜いてまで自分らしいものを作っていきたい、と。
人によっては様々な解釈をすると思うが、個人的にはこの説を推したい。
つまりこのピアニストは世間の目ばかりを気にしていた頃の自分を殺し、これからは自分としっかり向き合い、自身の音楽を貫いていこうという気持ちに変化した、という意味が込められているのではないか、と推測した。
このジレンマから抜け出せたピアニストに対して、なら良かったじゃん!って思う人もいるかもしれないが、計り知れない葛藤があったはずである。
という歌詞からも分かるように、このピアニストは1度自分を見失っている。
それによって誰の、何の言葉を信じればいいの?と自問自答する。
だが、これの正解に辿り着けるのは、世間の誰でもなく、自分しかいないのだ。
自分の音楽は自分にしかできないのだから。
このMVに出てくるピアニストはそれに気づくことが出来、決心した。
と私は思いたい。
前置きが長くなってしまったが、MVからの考察はこれくらいにしておいて、、
音楽業界の縮図
こっからは、現代における音楽業界の惨状について述べる。
まず、日本の音楽業界の今について
数多ある音楽を手軽に聴けてしまうYouTubeやサブスクリプションが普及したことで、昔に比べ、1つ1つの音楽に対する向き合い方が変化した。
また、いかにお金を有効に使えるかという「コスパ」ならぬ、いかに最小の労力(時間)で最大の成果を得られるかという価値観が生まれ、「タイパ」(タイムパフォーマンス)という言葉が使われるようになったことで1曲をじっくり聴くよりもたくさんの曲を流し聴きする人も増えたのではないか。
そこで、自分の創りたい音楽はどんなものかという事より、いかに万人受けし、たくさんの人々が立ち止まって聴いてくれるか、また、そのようなサウンド、楽曲構成はどんなものであるか、などを第一に模索するようになったのではないか。
例えば、最近の若者は前奏がない曲を好む傾向にあると聞いたことがある。
なぜか、
それは、サブスクリプションのツールの中で冒頭部分のみ試聴した際に、イントロだけではどんな曲なのか分からないからである。
逆にいえば、イントロをなくし、いきなりサビもしくはAメロが流れる方がどんな曲か掴みやすいため、それによりもっと聴きたい!という気持ちになりやすいのも無理はない。
あくまでも私の推測であるが、一方で、アーティストによっては前奏を入れることを好む人もいるはずだ。
だが、少しでも多くの人に聴いてもらうために、再生回数をのばすために、ヒットするためには自分が創りたいものを犠牲にして万人受けする曲を作らざるを得なくなる。
そういう縛りに支配される。
売れるのに苦労する、もしくは思わぬところから売れてしまったという予測不能な事が起きやすくなったという現状がある。
例えば、なかなか売れなかったアーティストが、自分がやりたいものとは違うが、売り出し方や作風などを変えてみてヒットしたということもしばしばある。
もしくは、特定の楽曲があまりにもヒットしすぎて自分のやりたい方向性があるにも関わらず、そちらの方向で進めていかざるを得なくなったというアーティストも実際に存在する。
1度定着してしまった売り出し方、方向性、作風、あるいは爆発的に人気がでてしまい、独り歩きするくらいに雲の上の存在になってしまった楽曲により、自分が分からなくなってしまうのだ。
葛藤し、もがき苦しみ、自らのアイデンティティを模索してゆく。
迷走することだってある。
果たしてアーティストはただ売れることが幸せなのか。
実際売れて音楽番組に引っ張りだこになり、賞をもらい、称えられ、人気になっても、当の本人は心の底から幸せであるのか、、?
もちろん幸せならそれでいい。
一方で、心のどこかで、あれ?私…と違和感が浮き出ている人がいる可能性もある。
とはいえ、世間の言うことであったり、万人受けしないとという考え方からは耳を背けよ言いたいのではない。
もちろんその考え方も大切だと私も思うが、決してそれが行き過ぎてはならないと考えるだけである。それにすぎない。
音楽としてではないが、私も、SNSをやる上で似たような経験をしたことがある。
私は、野球が好きで、周りに同じような趣味を持つ者がほぼいなかったため、共通の話題で盛り上がれる仲間を求めて、TwitterとInstagramの趣味アカウントを作った。
野球の試合の経過のツイートをしたり、選手の写真を投稿したり、思うがまま自分がやりたいようにでき、さらには少しずつ仲間との交流もでき始め、当時は楽しかった。
しかし、徐々にアカウントの規模が大きくなるにつれて、たくさんの人に見られているという自覚を持つようになった。
また、いいねやフォロワーの獲得のために、自分の投稿したい内容よりも見てもらう人の視点に立って受けがよさそうな投稿の割合の方が増えていった。
何なら自分が本来何を投稿したいのかさえも抑圧され忘れてしまっていた。
また、自分よりいいねの数やフォロワーが多いアカウントを見ると、なぜ?という気持ちに駆られたこともあった。
そこで、万人受けしているアカウントの真似をしてみたり、色々模索してみたものの、ここで私は気づいたのだ。
どんどん自分らしさが消えていっている。。
一体自分が何なのか分からなくなる。
なんのためにこのアカウントやってるんだろう。
何度も何度も葛藤した。
ここにいる自分は建前の自分でしかない。
なんだか作られた自分でしかない気がする。
いや、そもそも自分ですらない?
しまいには、迷走して垢消ししてしまった。
ここで学んだこととしては、自分の意志、自分軸、目的を貫き通す事が大切だということ。
誰かがこうしているからこうしなければならない、
こっちの方が周りから見た時に良く見えるからこうしよう。
ただ何も考えず、ろくに会ったこともない人々にまんまと流されながら、
そんな基準でSNSを使ってしまっていた。
誰かもわからない人々からの見えない圧力、風潮などは、どこに行こうが
切っても切り離せないであろう。
世の中のルールやモラルの中でというのは大前提で、できるだけ自分自身と定期的に向き合い、本当に自分が望んでいるものについて考えることを続ける必要があるのだ。
これが出来ないと、人生自体もなんとなくダラダラ生きて気が付いたら時間が経っていた、さらに自分らしさも消えてしまっているというダブルコンボを喰らいかねない。
Prayer Xが伝えたいこととして、
音楽業界では、売れるために自分の中にある感情・音楽観を抑圧しながら活動している人もいるのが現状である。
創作活動を行うにあたって、目先の名誉、売り上げ、賞賛を得ることよりも、自身と向き合い、自分本来の心をもっと大切にし、仮に失っていたとすればそれを取り戻すことも必要なのではないか。
迷走したら1度立ち止まって、他の誰かじゃなく自分自身に問いかけてもう一度考えてみないか。
というようなメッセージが隠されていると私は感じたのだ。
どうか、これからの音楽を創る人々の心が死にませんように。
これからもひとり1人が創る音楽が生き続けることができますように。
今を生きる私たちへのメッセージ
いよいよこっからは、人間の生き方への風刺について。
Prayer Xからのメッセージは、音楽業界だけでなく、私たち人間がこの人生を生きていく上でも通づるものがあるのではないか。
この世の中に生を受けている以上、あるものに頼り、囲まれて生きざるを得ないと言っても過言ではない。
それが、家族なのか、友達なのか、先生なのか、地域の人々なのか、推しなのかは人それぞれではあるが、
1つだけ言えるのは、ただ自分自身1人だけで生きている人なんて誰一人いない。
むしろ生きていくために、生きる指針を定めるために誰かしらに教えを乞う事、他人の価値観に触れることは大切である。
その教えなどは、自分と考え方が近いものもあれば、時には正反対の事もあるかもしれない。
とは言え、自分以外の者は所詮他人であることには変わりがないので、自分自身と考え方が全く同じという人はほぼ存在しないはずだ。
自分と他人との間に生じたズレを理解し、それにどう向き合うのか考える必要があるのではないか。
ただ、言われたことをそのまま吸収するだけでは意味がない。
教えられたこと、他人から得たことに関して自ら見極めて考えることなく、噛み砕かず、そのままにしておいたらそれは自分のものではなく他人のものでしかない。
受け身になり、自分で考えることをやめてしまうと、後からしわ寄せがくる。
せっかく自分をプラスの方向へ動かしてくれるきっかけになり得る歯車だと思っていたものが刃物となり、それが自らを傷つけてしまう恐れもある。
また、他人のものをずっと自分の中で飼い慣らしていると、そのうち、自分の中に秘めているものを解放できないまま乗っ取られてしまう。
そしてふとした時にそれが爆発してしまう。
上手くいかなかった時に、これは自分ならもっとこうする事ができたのではないか、などと考え、せっかく教示してくれた人のせいにしてしまったりすることもある。
人のせいにしたところで、その人は責任を取ってくれるわけではないのに。
行き場のないこのモヤモヤを抱えながら生き続けなければならない。
それと同時に残るのは空っぽな自分のみ。
ふわふわ浮いてどこかに飛んでってしまいそうだ。
こう見ると残酷な話だ。
ここで、私の学生時代の経験を話そう。
小学校時代に先生の言う事は絶対であるという風潮の中で学校生活を送っていた。
当時はそれが当たり前だと思っていたが、今思えばそれは半分正しく、半分間違っていると感じている。
勉強にしても生活面にしても、先生の言う通りにしておけば間違いない、先生がこう言うんだからこう直しなさいと言われ、その通りに動かされていた。
私は従順で真面目な生徒だった。たしかに先生の言う事さえ聞いていれば普通に無難な学校生活が送れ、勉強もそれなりに出来ていた。
何なら先生がほめてくれることがモチベーションとなり、頑張れている部分もあったほどだ。
その調子で疑うこともなく何も考えず、全部その通りに動いていたら10年後どうなったか、、
「言われないと動けない機械型人間」と化してしまった。
高校時代は、自称進学校と呼ばれる類の高校に通っており、課題が山のように出ていた。それを期限までに着実にこなすだけこなしておいて、いわゆるいい子ちゃんとなっていた。さらに、先生からの進路指導なるものがあり、この時期からは〇〇をすべきだ、あなたには〇〇がいいんじゃないかなど、色々なことを言ってくる。
今思えば、勉強でいえば自分が苦手な部分は、いくらノウハウがある学校の先生よりも自分自身が1番分かっていたはずだが、
当時の私は、課題が多すぎるから自分がやりたい勉強ができないと言い訳ばかりしていた。いわゆる逃げに走っていた。
また、提供される情報量が多すぎてどれを信じたらいいのか分からなくなっていた。せめて、取捨選択して自分に合うものだけを見極めて実践すれば逆に成長出来ていたかもしれない。。
本当に考えるという事をさぼっていたんだなと心から実感した。
方や、周りにいた同級生の中で学校の課題や定期テストは適当に済ましておいて、あとは自分のための勉強、難関大学入試を見据えて早くから模試に力を入れている人もいた。塾での勉強を優先している強者もいた。
これをやると、もちろん、先生からの視線は痛い。下手したら干されるレベルだ。(笑)
私は、先生から嫌われてまでそんなことする勇気が出なかった上に、学校から出された課題くらいちゃんとやれよ、と少しだけ軽蔑の目で見ていた。
だが、大学受験が終わった今、その本質に気づいたのだ。
あの人たちは、あの頃から自分自身の人生を見据え、逆算し、取捨選択し、その時々に必要な事を見極め、考えながら行動し、勉強にも取り組んでいたのだ。
あの人たちは「自分の」人生をしっかり生きていたのだ。
極論、先生からどう思われようが、結局はその人の人生でしかないので全く関係ない。
何が自分にとって必要であるか、何が自分にとって不要であるか、
これを考えて取捨選択する脳が私には足りていなかった。
大学受験に未練が残った私がそれに気づいた瞬間、涙がボロボロ零れ落ちた。
自分の愚かさ、浅はかさ、無念さ、心残り、後悔、、、
私は、その先生からの目というナイフが刺さったままそれを抜くことができず、高校生活・大学受験が終わってしまった。
そして後から残ったのは、自分で何も考える事ができないようプログラミングされた自分の身体のみであった。
今まで本当に私は何をしていたんだろう。
今思えば、高校2年生までの自分は、完全に思考停止状態だった。
自分の意志で動けていなかったしわ寄せとして、後から先生のせいにしたくなる気持ちがふつふつと沸いてきてしまっていた。
だが、所詮先生は生徒に対して事務的に課題を出していたにすぎない。
先生は何も悪くない。ただ教員としてやるべきことをやってくれていただけなのだ。
だからこそ、こうなってしまった原因が自分で能動的に考えていなかった結果だと悟った時の絶望感は計り知れないのだ。
人生は1度きりなんだ。もう2度とその時は戻ってこないんだよ。
だから自分と向き合い、考える事をやめず、物事の本質を見抜ける人間になりなさい。
と、あの時の私に言いたい。
逆に、自分の意志で道を選び、進んだ経験もある。
先ほど述べた高校生活での後悔は、高校3年生が終わろうとしている時点で薄々感じつつあった。
絶望の淵に立っていた当時、どうにか変えなければなと思い始めていた頃の話。
先程も書いたように、私は自称進学校と呼ばれる高校に通ってましてね。
まぁここはとにかく国公立至上主義でね。
国公立大学目指さないやつに人権なし的な感じだった訳さ。
私は、元々目指していた国公立大学・学部があったのだが、自分にとってなかなか高い目標だったため、模試の結果とかも伴わず、かと言って自分に甘くてなかなかエンジンがかからなくてね。
あと、その頃から栄養学科に興味を持ち出して、栄養系の学科に行きたいと思い始めたの。
そんな中、地元の県立大学には栄養系の学科があったんだけど、そこはセンター試験で基礎じゃない生物が必須だったのよ。
当時私は文系クラスで、生物を履修してなくて、独学をしようと考えましてね。
それを当時の担任に面談の時に言ったら猛反対されてしまって、、
ほんとにボロカス言われたなぁと。。
まぁ結局独学は諦めたんだけど、
地元の私立の栄養学科なら文系でも受けれたのよ。
国公立の興味無い学科に行くよりは、
こっちに行く方が自分にとって有意義なんじゃないか。。。
センター試験もあまり上手くいかず、
自分が受けたいと思う尚且つ合格出来る可能性が高い大学、学科が全然なくて、かなり落ち込んだ。
私の高校はみんな国公立は受けんといけんくて、結局、受かっても私立の栄養学科に行くって決めて某国立大学の教育学部を記念受験したのよ。
それでも受けるからには出来ることは頑張りたくて二次試験の科目であった苦手な英語めちゃくちゃ頑張って、
そしたらまさかの合格してしまって、、、
けどそこは自分が本当に行きたいところじゃなかったので、受かったけど蹴ると担任に連絡したらまたもや大罵倒くらいましてね、、
そりゃ頭おかしいって言われるのはわかってる。
普通なら国公立受かったらこっち行くもんね。
世間体もあるしね。
国立というブランドを捨ててまで、そこより偏差値も知名度も低いものの自分の興味がある栄養学科に行くか、めちゃめちゃ悩んだ。
普通の人からしたら馬鹿じゃねえのと言われそう、、笑
結局、某国立大は辞退して、地元の私立を選んだんだけど、大学生活、思ったより大変で、、、
偏差値や知名度低いくせに、授業・課題・実習・勉強大変すぎる、、なんで私がこんな思いせんといけんのんって文句を言いまくってた時期もあった。
プライドが邪魔したことも多々あった。
けど、冷静になってよく考えてみたら、この道に進むと決めたのは正真正銘私だった。
気づけば4年生になり、逆に自分で決めたからこそ、ここまで続けられたと今では感じている。
辛かった…
けど、この学科で学べたことはたくさんあるし、この学科じゃないと得られなかったものもきっとたくさんあるはずだ。
今ではこの学科で頑張ったことに後悔はないし、自分にとって意味があるものだったと胸を張って言える。
まとめ
人から教えてもらったこと、与えられた価値観は、あくまでも1つの意見として自分の中で一時的に圧縮保存しておくくらいが丁度いいのだ。
自分の思いを蔑ろにし、他人に言われたことのみをただ機械的に受け入れるのではなく、それを自分自身の中でも考えてみることで時には成長にも繋がる。
人間誰しも、生きている限り、いつか壁にぶち当たる時がくる。
どうしてよいのか分からなくなり、人に相談したりアドバイスをもらいながら葛藤する中で迷走し、
「一体何を信じたらいいの?」
と疑問に思う瞬間が訪れるかもしれない。
自身の胸に手を当て、自分自身の中にある秘めたる想い、信念を再確認してみてはどうか。
とは言え、
自分で考え、決断して進んだ道であっても本当に正しかったと心から思える保障はない。
しかし、それがいい方向へと向かってくれることをただ、ただ願い、自分を信じて生きていくしかない。
King Gnuの井口理さんも「Prayer X」について、こう述べている。
人間誰しもが何らかの葛藤を持っており、立ち止まってしまう事はあるかもしれない。
また、誰かにもすがりたくなるかもしれない。
人からの意見を取り入れることが必要な時もたしかにある。
そこで、世間であったり身近な人の力を借りるのは1つの手だ。
だが、自分で考える事をやめてそれをしてしまうと、
他人の目を過剰に気にしすぎてしまい、それに捉われすぎてしまう。
それにより、
思うように動けない、正解が分からない、自分とは何なのか、他人に活かされた屍でしかないのか、と考えてしまいやすくなるのではないか。
少なくとも私はこのように考えたことが何度もある。
仮に、自分が自分じゃないような状態で人生のコマを進めてしまうと、いざ絶望の淵に落ちてしまった時に立ち直れなくなり、取り返しがつかなくなってしまうかもしれない。
世間や身近な人から得た様々な情報を見極め、噛み砕きながら自分の中に落とし込むことができてこそ、その効果が発揮されるのではなかろうか。
生きていく中で自分が進んだ道・方向が正解だったと後から振り返って胸を張って思えるようにするために、自分で舵を取って突き進んでいこう。
多少失敗しても、私の経験上、自分で決めたことであれば悔いは残りにくい。
逆に上手くいかなかったとしても、そこで学んだ事を活かして次のステップに進んでいく事ができれば本望だ。
生涯、決して裏切ることのないと断定できる味方は、自分しかいないのだから。
周りからの情報を見極め、自ら考える事を続け、
自分の声にもっと耳を傾けて
地に足をつけて
自分軸で生きよう。
そのようなメッセージも「Prayer X」に込められているのではなかろうか。
己の味方は己のみ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?