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ZARA戦記

満を持して、ZARAに行ってみました。昨年のことです。ヤングたちの間では滅法評判のブランドらしいし、店の前を通る度にiPhone発売日かって思うくらい人がゴミのようだし、「ZARAでコート買いたい」と弟からの申し出もあり、家族サービスの一環として付き添ったわけです。しまむらの片隅に生きるハゲと致しましては、名前からしてアルファベット、しかも太めの大文字フォントである時点で、その強すぎるオシャレ圧に目も眩む思いでしたが、これもリベラルアーツだと思い、ZARAデビューに向けて斎戒沐浴の日々を過ごすことにしました。手始めにウィキペディアなどでZARAについて調べてみましたところ、なんとスペイン発のブランドだそう。

「すすす、スペインだって!?スペイン語とかアディオスぐらいしか喋れねぇよ・・・」
「緊張のあまり尿意が催してきたら『お手洗いどこですか?』ってスペイン語でイケメン揃いの店員に聞かないとダメやんけ・・・どうすりゃええんや」
「とりあえずパスポートと地球の歩き方を準備せねば・・・」「てかザラっつったらアスラン・ザラ(CV:石田彰)のことじゃねえのかよ」

と、ハゲの脳裏に浮かんだのは、概ねこのような生産性のない恐怖でした。「ZARA=オシャンティーの巣窟=世界の敵」という破滅的な方程式が瞬く間に導かれたのは言うまでもありません。イタイです。イタ過ぎます。もしも絆創膏が手に入るのなら、身も心も丸ごと包み込めるくらいのでっかいやつを処方すべきです。こと服飾に関しては、まあ服飾に関してなくても、僕はあまり器用ではありません。三十路に突入してから、パンツを履き忘れノーパン状態で外出してしまったこともあります。女性サイドから時折耳にする「ブラジャーつけ忘れてノーブラで仕事行っちゃった(笑)」系の失敗談とはわけが違います。なぜか?女性のノーブラは微笑ましさを持って受け止められますが、ハゲのノーパンは古今東西、1ミリたりとも需要が発生したためしがないからです。「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」とマザー・テレサは言われました。ハゲのノーパンは、世界から愛もされず、憎しみも抱かれない事象なのです。マザー・テレサにとってさえ、ハゲのノーパンはコメントに困る怪奇案件。そのザンコクな現実を、僕らは哀しみをもって認めるしか術はない。

ファッション、つまり服飾は、ある種グロテスクに発展した奢侈の需要から生まれた文化と言えます。高価であること、上質であること、そして沢山持っていること。肉体と精神の姿を美しく演出するのが服飾であるならば、自分のステータスが他人よりも優れていることをひけらかすのもまた服飾の社会的役割と言えます。光源氏の世界や、宮廷文化華やかなりしベルばらの世界を思い浮かべましょう。『人は見た目が9割』なんて啓発書もありましたが、それどころの話じゃありません。能力、信用、富・・・万事が身なりから判断された階級社会の時代にあって、オシャンティーでいることはまさしく死活問題でした。ルイ14世の時代にメーヌ公夫人って人がおりましてね、黄金や宝石がふんだんにあしらわれた彼女の髪飾りは当人の体重よりも重かったそうです。なるほど彼女の首は範馬勇次郎に匹敵する強度を具備しているに違いありません。また、ロシアの女帝エカチェリーナ(たぶん2世の方)は8700着もの礼服を持っていました。1日1着着てっても23年はかかる計算です。ヒートテック3枚で細々と生きる僕からすれば、ちょっと意味がわかりません。

「ヒートテック3枚とかそういう情報って別にどうでもよくない?」―はい、僕もそう思います。「で、ZARAに行った感想はどうなの?」―そうですねえ・・・あれはもはや遠い記憶のようで・・・白基調の店内はとても明るくて・・・店員さんもお客さんもみんな若さが眩しくて、もう日射病になりそうで・・・はい、すみません。全く覚えてません。でも日本語が通じてよかったですよ。「お手洗いは、どこっすか?」が僕がZARAで発した唯一の言葉でした。

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