わたしは毒親育ちなんだなって、思うに至るまでのこと。
毒親。今でこそよく耳にするようになった。耳障りの悪い言葉だなあ、と、思う。嫌な言葉だ。わたしは好きではない。
こんにちは。はじめまして。憂鬱なルイスです。
申し遅れました。わたしは憂鬱なルイスと申します。地方で夫と娘と三人暮らしをしている、不安障害で無職の三十代女性です。それ以外に特筆すべきことのない、本当につまらない人間だと、情けなく、あまりにも悲しく思います。わたしには、本当に何もありません。大切な家族がいる、ってだけです。わたしの中身は、本当におそまつなもので、誇れる過去も、守りたい信念も、何にもありません。こんなにもつまらない人間の話を聞いてくれる人は、こちらに居りますでしょうか。
わたしは毒親育ちなんだなって、思うに至るまでのこと。
さて。何もないわたしであるけれど、わたしなりに、がむしゃらに生きてきた。いや。ガソリンをまき散らしながら暴走していた、と、形容したほうが正しい。その走りっぷり、マッドマックス怒りのデスロードの如くである。そんな気の狂った状態でも、なんとなく、うまくいっていないことには感づいていた。自分の居場所がないことも。そりゃそうだ。車検も通らないことが明らかな暴走車両と、誰が並走したいと思うだろうか。わかっていた。でも、そんな現実を見るのも怖くてたまらなくて。変な意地とプライドのせいで、暴走を止めることができなくて。そんな状態で、三十年あまり。脇目もふらず、ひたすらに駆け抜けてきた。
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そんなわたしにも、縁があって夫と出会い、家族になって、娘がうまれた。
なんということだ。こんなに有難いことなんてない。暴走車両に訪れた、いかにも人間らしい幸運である。日々、すくすくと成長する娘と、穏やかな夫と共にある生活は、わたしにはもったいないくらい幸せなものだった。
はずなのに。なぜだろう。娘が成長するにつれ、わたしの心はどんどん握りつぶされていくようだった。楽しそうに笑う娘の笑顔が。我を通そうと真っ赤になってる娘の泣き顔が。おもちゃを手に取り真剣な表情をしているかのように思わせる後ろ頭が。愛おしいはずの娘の姿に胸のあたりがギュッとして、息をするのも苦しかった。わけもわからず涙が出た。そのうち、眠れなくなってしまった。ご飯も全然おいしくなくて、食べることも嫌になった。
娘のことは愛している。うまれてきてくれたことは、本当に嬉しかった。娘の成長の一瞬一瞬が宝物だった。それなのに。わけがわからなかった。
やつれてゾンビのようになっていく自分の姿を鏡で見て、「子育てとはきっと、こんなものだろう」と、妙な納得の仕方をし、ギュウギュウに雑巾絞りされている自分の心のことなんて、全く見ようとも思わなかった。
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ある日。一人で遊んでいる娘をぼんやりと見守っていた時のこと。わたしは何の気なしに、それでもはっきりと、つぶやいた。
「ああ。死にたい」
口をついて出てきた言葉に、はっとして、両手で口を抑えた。その手が小刻みに震えていたのが、なんだかちょっと気持ち悪くて、「わあ、ドラマみたいだな」って、ちょっとだけ冷静に思ったりした。よく覚えている。娘が振り返り、わたしを見て、にこって笑った。
ショックだった。大好きな娘の前で、そんな恐ろしいことを言ってしまったことが。いよいよ自分は、何かがおかしいんだと。このまま、自分の状態を放っておけないと。いずれわたしの言葉で、娘を傷つけてしまうと。そんなことは絶対にしたくないと。どうにかせねばならないと。思った。今までにないくらい、強く強く、思った。
こんな具合に、わたしは、疑念、確信、覚悟、奮起、のフェーズを始発から終点まで最高速度で一気に通過し、わたしは、絶対に見たくないと、見てたまるかと、目張りをし釘打ちまでしていた記憶のふたをこじ開けることになる。
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医師の父、専業主婦の母。わたしは三人きょうだいの真ん中で、明るく元気なムードメーカーとして、よく家族の笑いを取っていた。学校から帰れば、母がお菓子を用意してくれ、たくさんお話をしてくれた。母は非常に多趣味で、習い事をたくさんしていて、暇があればフルートを吹いたり、絵を描いたり、縫物をしていたりと、日々充実しているように見えた。父は仕事から帰ると、母の家事をよく手伝い、わたしたちきょうだいと、よく遊び、勉強も教えてくれた。
大きな家。広い庭。リビングには綺麗な家具や調度品。立派なピアノもあった。そういえば天井には大きなプロペラがぐるぐる回っていたっけ。大きな犬も二匹いて、友達のいないわたしにとっては、彼女たちの存在は大切な大切な心の支えだった。
母はよく言っていた。「あなたは恵まれているわよ。優しいお母さんがいつも家に居て。あなたは本当に恵まれているわ」って。
父はよく言っていた。「お母さんの言うことを聞きなさい。お母さんの言うことは間違っていないから」って。
近所の大人たちはよく言っていた。「本当に立派なおうちね。良かったわね、うらやましいわ」って。
わたしは思っていた。「いい両親に恵まれてよかった。わたしは幸せ者だ」って。
幸せいっぱいの暖かい家族。わたしはうまれ育った家庭はそんな場所だった。
って、思い込んでいたかった。
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医師の父。専業主婦の母。わたしは三人きょうだいの真ん中で、小さいころから体が弱く、母をよく心配させていたらしい。だからだろうか。母は、学校から帰ってきたわたしにすかさずお菓子を出して「ねえ、お母さんの話を聞いてよ」と語り始めることで、自分のそばに居させたかったのかなって、今になって思う。
母の話はいつも大体同じだった。自分の小さいころの話。すぐに手をあげる祖母の話。同級生にいじめられていた話。同僚にいじめられていた話。ママ友が無視してくる話。話にならない親戚連中の話。私は悪いことしてないのに。なんでいつもうまくいかないの。おかしいのはみんなだ。私は間違っていないのに。
感情が高ぶるにつれ、涙を見せる母をかわいそうに思い、わたしは大げさにウンウンと頷いてみせたり、お母さんは間違ってないよ、って寄り添ってみせたり、面白いことを言って笑わせようとしたりした。母に笑ってもらえると嬉しかった。母の笑った顔が見たかった。泣いてる母を差し置いて、「ねえ、外に遊びに行っていい?」だなんて、言えるはずもなかった。
*
三歳ころだろうか。人目をはばからずイヤイヤと泣き喚くわたしを「あら、しょうがない子ね」と連れ帰り、家の中に入るなり床に突き飛ばして「よくも私に恥をかかせてくれたな」と怒り狂い泣き喚く母が、ものすごく怖かった。母が台所のテーブルを思いっきり叩くたびに、積まれたお皿がガチャン、ガチャン、と音を立てていたのも怖かった。腰が抜け、鬼のような顔で涙を流す母を床から見上げながら「ごめんなさい、ごめんなさい」って、泣きながら謝った。そのあとのことはよく覚えていない。でも、母に恥をかかせてはいけない、ってことは、しっかりと覚えた。母に恥をかかせてはいけない。母に恥をかかせてはいけないんだ。そうじゃなきゃ、とても恐ろしいことがおこるぞ。
*
母はよく絵を描いていた。少し離れたところで、ひとりで人形遊びをしていたわたしは、時折母に「ねえ、一緒に遊ぼうよ」って声をかけた。「ちょっと待ってなさい」と母は言った。わたしは律儀にずっと待っていた。結局、母が一緒に人形遊びをしてくれたことはない。そういえば、母がわたしと一緒に遊んでくれたことって、あったっけ。
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父は頭が良かった。わたしたちきょうだいの勉強をよくみてくれた。子どもの時のわたしは勉強が良くできた。勉強が不得意だったきょうだいたちは、父から酷い言葉でなじられ、リビングで泣いていた。
「こんなのもできないで!!馬鹿がよ!!」
怒った顔の父。泣き喚くきょうだい。知らんふりの母。そして、知らんふりのわたし。
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高校生になって携帯を持たされたわたし。母のメールにすぐに返信をしないと、20件、30件、と次から次へとメールが届いた。
「返事ください」
「いまどこにいるの?心配だよ」
「なにをしている?私に言えないようなことをしているのか」
していないよお母さん。ちょっと放っておいてくれよ。下校中のバスの中、母から届くメールに返事ができず、タオルで汗を拭くふりをしながら、涙を拭いた。そうだ。うちのお母さんはおかしい。もうずっと前から気づいてた。でもこんなこと、誰に相談できる。できるわけない。相談なんてしたら、お母さんに恥をかかせることになるじゃないか。そんなことはできない。そんなことしたら、とても恐ろしいことがおこるぞ。
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母はよく「私が死んだら、生まれ変わりたくない」と言っていた。
「生きていても良いことなんて何もないもの。面倒くさい。嫌なことばっかり。だから、長生きなんてしないで、さっさと死んで、天国みたいなところで、桃の木の下に住むの。毎日桃をたくさん食べて過ごすわ。ルイスちゃんも一緒にいてくれる?」って。いかにも、楽しそうに言っていた。
幼いわたしは、それを聞いて「いいね。そうする」って答えていた。生きていても良いことなんてないからね。お母さんが楽しそうに言うことだから、死んだ後の世界はきっと良いところなんだろうな。ああ。わたしも、早く死にたい。
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わたしに与えられた自室は、なぜか母のクローゼットを兼ねており、しょっちゅう母が出入りしていて、不要になったものは「あなたが使いなさい」と押し付けられることがしょっちゅうだった。どんどんゴミ屋敷化するわたしの部屋を母はたびたび覗きにきては、「きったない、あんたキチガイなんじゃないの」って口汚く罵った。父も同じだった。大きな音を立てながら階段を上ってきて、ガラっと戸を開けて「キチガイ、はやく片づけろキチガイ」と言った。やめてよ。見ないでよ。放っておいてよ。
*
家の夕飯時は、毎日地獄のような空気感だった。不機嫌を隠そうともしない姉、一言も言葉を発さず無表情な弟、ぎゃあぎゃあと父をなじる母、それをなだめる父。家族との食事が、少しでも楽しくなれば、と、わたしはわざとマヌケなことをしたり、おどけてみたりしてた。全然楽しくなかった。夕飯を食べ終わると、きょうだいたちはそそくさと自室に戻り、残った両親が不穏な雰囲気にならないように、わたしは愛想笑いをしていた。母は「あなたは明るくてとってもいい子ね」とよくほめた。嫌な気はしなかった。でも、なんでだろう。胸の中がキシキシした。キシキシキシキシ。たぶん、死にたみ、ってやつだったと思う。
*
日ごろは聞き分けが良いわたしでも、時に、我慢がきかず感情的になって、自己主張をすることもあった。受験のこと。将来のこと。全部、わたしのことだ。わたしが決めたかった。でも、母は当然のように、決めつけて、勝手に準備を進めてしまうんだ。
だからせめて、話し合ってみたかった。わたしはこう考えてる、こうしたい、って。でも、母はいつだって涙を流しながら言った、「あなたのために言っているのよ」って。父は言った、「お母さんのいうことを聞きなさい」って。折れるのはいつだってわたしだ。そうだ。この人たちとは、話し合いなんてできない。ああ、めんどくさい。だったら、言われた通りにしてたほうが、傷つかなくて済む。めんどくさい。本当にめんどくさい。
逃げ込んだ自分の部屋で、ゴミの掃き溜めのようになっている部屋で、ひとしきり泣いたあと、涙を拭いて考える。さて、そろそろリビングに戻って、さも、申し訳無さそうな顔をして言おうか。「お母さん、ごめんなさい」って。大丈夫。わたしは傷ついてなんていない。
そうだった。わたしはうまれ育った家庭はそんな場所だった。
***
記憶のふたははじけ飛び、どこかへ行ってしまった。代わりに、どこかへ行ったかと思っていた自分の感情たちが、連れ立ってぞろぞろと帰ってきた。苦しい。悲しい。辛い。腹が立つ。悔しい。やりきれない。消えたい。死にたい。
辛かった記憶、忘れていた感情が溢れかえって止まらず、何をしていても涙が出る。我慢ができない。いよいよ夜も眠れなくなってしまった。
そんな状態になっても、理性は残っていた。わたしは、一生懸命考えた。
わたしには娘がいる。まだ小さくて、これからどんどん成長していく、未来ある娘が。それなのに、母たるわたしが、こんな状態で良いのか。絶対にこのままじゃいけない。死にたいだなんて思っちゃいけない。わたしにとって。それ以上に、娘にとって。どうにか、この現状を打開せねば。
どうにかしよう、どうにかしなければ、との一心で、インターネットの海を泳いでいるうちに、わたしは「毒親」って言葉にたどり着いた。「アダルトチルドレン」って言葉にも。壊れた心は、ひとりでどうにかできるようなものじゃないってことを知った。元気になるには専門家の力を借りなければならないってことを知った。
どうなりたいかはわからないけど、とにかくどうにかしたかった。このままじゃいけないって思った。だからわたしは、生まれて初めて、夫に言った。
「カウンセリングに行きたいんだけど。実は、わたしの親、おかしくって」
だからわたしは、毒親育ち。
あれからもう少しで4年経つ。心療内科に行き、カウンセリングに行き、いまだに定期的にカウンセラーさんに話を聞いてもらっている。最初は、親のことを話そうとするだけで、涙が止まらずにどうにもならなかったけど、今では頭と心の整理がついて、ずいぶんと元気になってきた。
たぶん、幼少期の記憶と感情にふたをしたまま、健全に子育てをすることは難しかったと思う。言葉を選ばずに言うと、わたしは虐待親になっていたと思う。ニュースになるようなことを、やっていたと思う。
だから、自分の育ちを振り返って、それは、とっても痛みを伴うものであったけれど、やっと、自分の人生を歩んでいく準備が、できたような気がする。やっと、真人間になれるような、気がする。
***
毒親。嫌な言葉だ。耳障りも、口当たりも、舌触りも悪い。全然好きじゃない。でも、この言葉に出会えたおかげで、わたしは、わたしを生きることができるようになった。それは間違いない。
だから、しょっぱい顔にはなるけれど、あえて、最後はこう締めたい。
だからわたしは、毒親育ち。ならばこれから、どう生きる。