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夢も希望もなくても次はある

私と相棒の間には、共通の友人が数人いる。
その中に、一時期一緒にゲームを作ろうと、サークルを結成した人物がいる。

去年のことだったか、いろいろな理由で、そのゲーム制作のサークルを解散した。
その後、その人がどうしているか、私は相棒に尋ねた。
すると相棒は「あいつはダメです」と呆れたふうに返してきた。
その人は、まだ二十代の若者だった。誰が見ても、人生はこれからと言えた。いろいろなことに挑戦できるし、まだまだ経験を積んだ方がいい年齢でもある。頭もいいし知識もあるという話だった。
それなのに「あいつ、全然やる気がありません」と、相棒は肩を落とした。

ゲーム制作のサークルを解散した後も、その若者は、いろいろと足掻いていたらしい。
さまざまなジャンルのゲームを買ってプレイしたり、ゲーム関係のコンテストに出場してみたり、触ったことのない道具を試してみたり。
しかし、どれも手ごたえや成果が得られるものではなかったそうだ。

相棒は、その人の近況を直接聞いた。
いろいろ挑戦してもダメだったとしても、落ち込むことはない。
「次に行こう」
と、相棒は相手を励ました。
しかし、その人は、素っ気なくこう言った。
「次って?」

才気があり、年齢も若い。何もかも諦めてしまうのは、宝の持ち腐れだし、時期尚早だと私は感じた。
諦めは、才能や可能性を一網打尽にする。
人間、二十代のうちは、たくさん失敗をするべきだと言う大学教授もいる。何かを究めたい、成果を得たい。
大望を実現しようとするなら、数度足掻いて失敗したくらいでへこたれてはいられないだろう。
十年、二十年と足掻き続ける気概を保持し続けられるのが理想だ。

ただ、あまりにもうちのめされて、バイタリティーがいつまで経っても快復しない場合もあるだろう。
そういう時は、戦略的に立ち止まることも必要になってくる。
数年前、私の精神科の主治医だった人も、私に入院を勧めてくるときに「ちょっと休みたいって軽い気持ちで入院するのでもいいよ」と言っていた。
ちょっと休むのは、もちろん、次に行くためだ。
次に行くための英気を養うためだ。

今の時代、夢も希望もないという人は珍しくない。
私が二十歳を過ぎたくらいの時、夢などないと断言する同年代がとても多かった。
当時の同僚には、「三年経ったら転職する」と言いつつ、偉そうに仕事についてアドバイスしてくる者までいた。
三年で辞めるつもりのくせに、業務を円滑にする方法を説いたって、次にはつながらないだろうに。それともただ偉ぶりたいだけだろうか? 
そんな相手の思惑が透けて見えていたから、私は不快に思った。

夢はなくてもいい。
夢が断たれるようなことがあっても、抗うことはできない。
下手に抗い続けると、疲れてしまう。戦略的に休んでしまおう。
ただ、夢も希望もなくても、次どうするかは考えられるはずだ。
もし次どうするか、考える余裕があるのなら、楽しく考えられたらいい。
へこたれた自分を鼓舞し、次の舞台に向かうことができれば、上々だろう。


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