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短編小説「グズの男」

これは、後から聞いた話だ。
俺も、そいつの身の上については、何も知らなかったよ。だって、ろくに会話したことなかったもの。
あるとしたら、そいつが俺の店にやって来て、一番安いラーメンを注文する時だけ。食って、会計して立ち去るまで、雑談なんかする余裕なんかない。こっちも、住宅地の真っただ中にある食堂とはいえ、仕事帰りの若いやつらが、そこそこやって来る。一人で営んでいるんだから、客と話しているゆとりなんか、これっぽっちもありはしないよ。

そいつを見た限り、いつもげっそりした顔で、不愛想に暖簾をくぐってきた。年齢は、俺と同じくらいかと思っていたが、実際は四十代だったらしい。とにかく幸の薄そうな風体だったよ。ゴボウの方がまだ肉厚なんじゃないかと思うくらい、ひょろっとしてて、骨と皮だけみたいな背格好だった。頬もこけて、指もごつごつと筋張っている。不気味なくらい青白い面貌で、ネズミ色のしわしわのコートを、一張羅にして着こんでいた。

さんざん力仕事してきて汗臭い若者たちや、工事で日に焼けて真っ黒になった壮年の労働者は、うちの店の常連客だ。だから、青白い顔の客は、珍しかった。ひょっとしたら外仕事じゃなくて、事務方のサラリーマンだったのかもしれない。

そいつはとにかく、ゆっくりした動作なんだ。カウンターの椅子に座るのも、五秒くらいかけてから、ようやく動きだす。言葉つきは普通なんだが、ラーメンを出してやってからも、ひたすら肩を落として、どんぶりの表面を眺めている。麺がどんどん伸びるというのに、魂が抜けたような呆然とした顔で、ただただ眺め下ろしているんだ。
でも、どうやら、わざと麺を伸びた状態にしていたらしいよ。
なんでかって? そうしたいからさ。とにかく急ぎたくない男なんだよ。ぐずぐずしていてノロマ。歩道を歩いていても、歩調が群を抜いて遅い。だが、それがそいつの快感なんだよ。追い越されたいのさ。群衆に。自分を追い越していく通行人たちの、背中を眺めるのが好きなんだ。

そりゃあ、他の忙しい人や、急いでいる人にとっては、何につけてもゆっくりした男の存在は、迷惑だよな。多くの人たちは、分刻みのスケジュールで動かなきゃならない。この男のことは、いっそ突き飛ばして壁に押しやってやりたいくらい邪魔だよな。
そいつも、俺の店に来るまでは、他の人たちと同じように、忙殺される生活を送っていたらしいんだ。予定に急き立てられるように、毎日仕事漬けだった。だから、そういうふうに急いでいるやつらの軌道から、外れたかったんだよ。
疎まれてもいい。舌打ちされてもいい。男のことを邪魔者扱いして、追い越していってもらいたい。追い越す人たちは、男のことを、哀れみの眼差しで振り返る。もしくは急いで通り過ぎていく。
一方、男は男で、そういうやつらの背中を哀れみの表情で見送る。お互いになすり合っているわけだ。そうやって心の中で嘲笑し合っているんだよ。

ある時から、その男は、午後十八時になると、必ず俺の店を訪れるようになった。
十八時前に来ることはあっても、過ぎてから来ることはない。いつも通りラーメンを注文する。伸びた麺を食い終わっても、しばらく寛ぐように頬杖をついて、じっと座っているんだ。
こっちも、だんだん忙しくなってくる時間帯だから、さっさと引き上げてもらいたい。だが、この店は俺一人しかいないものだから、声をかけるゆとりなんてない。不本意ではあるけど、滞在を許さざるをえなかった。

十八時三十分になると、男は席を立つんだよ。
素っ気なく会計を済ませて、そそくさと店を出ていく。
何回かそういうことがあって、ある時、俺は気づいた。
店ではずっとラジオを流している。ローカルのラジオ局に周波数を合わせて、流しっぱなしにしているんだ。どうやら、その男は、十八時からのラジオ番組を最後まで聴き終わってから、うちの店を出るようなんだ。
何て言うことはない、若い女の子がディスクジョッキーを務めているラジオ番組だった。地元の現役大学生の女の子が、ぺちゃくちゃと好きな映画の解説をする。俺は映画なんか見ないから興味ないけど、その男は時々うなずきながら、その子の解説に聞き入っていた。

女の子が、アンナって名前だっていうのは、最初に番組名を紹介する時、クレジットで聞いてわかった。
鈴を転がしたような声で、丁寧に朗らかに話すものだから、聞いていて耳が気持ちよかったよ。番組の終わり頃になると、淀川長治の真似をして「さよなら、さよなら、さよなら」って言うんだよ。若いのに、年配の映画ファンの喜ぶことを心得ているなと思ったものだ。だからきっと、男の胸にも刺さったんだろう。

男が、うちの店に通うようになって、しばらく経った頃だった。アンナがラジオ番組の中で、突然自分の身の上話をこぼしたことがあった。
なんでも五年前に、両親が別居することになったらしい。家から出て行った父親は、なんとか障害とかいう精神病で、働けなくなった。おそらくそのことが原因で、妻に見捨てられたんだろう。一人娘のアンナは、出て行った父親と連絡を取ることもできずに、寂しいからラジオ番組のMCに応募したと言っていた。父親が大の映画好きだったらしいな。その影響で、映画の解説の番組を持たせてもらったと言っていた。

それまでその男は、俺の店のカウンターで大人しくラジオを聞いていたが、いきなり席を立った。
かと思うと、血相を変えて、店の外へ転がるように出て行った。

驚いたよ。ただでさえ、ゆっくりした動作の男だったんだ。ラーメンの麺が伸びきってから、ようやく手をつけるような輩だよ。それが、脱兎のごとく出ていくと思わなかった。だから俺も、無銭飲食だと気づくのが、だいぶ後になってからだったよ。

その男はそれから、二月の寒空の下を、どこかへ向かって歩きだした。
力の限り、走ったり歩いたりしながら、十二時間以上ずっと歩いていた。うちのラーメンを、スープも全部平らげていったのが、最後に口にしたものだったらしい。
ただ、立ち止まることはしなかった。ゆっくり歩くことはあっても、立ち止まることは、普段からしていなかったようだ。だって、立ち止まったり、道端でうずくまったりすると、悪ガキどもに誤解されて、襲撃されかねないだろう。
ひたすら歩きどおしだ。群青の空も白み始めて、日が昇っても、ずっと歩きどおし。足も疲れてきて、息も絶え絶えになりながら、もう力尽きそうでも、ずっと歩いていた。

だけど運悪く、時刻はもう朝八時を回っていた。通勤する労働者が、最も多く行き交う時分だな。
しかもそこは、ここいらで一番交通量の多い国道の、スクランブル交差点に差し掛かるところだったんだ。頭上にも高速道路が通っていて、タイヤの音がやかましい。

通りすがりの人たちは、誰も男のことを気遣おうとしない。汚い中年男に、手を差し伸べようとするような奇特な人なんて、今時いないよな。それでも男は大きく屈むように、這う這うの体で交差点に入っていく。
歩行者信号は、見渡す限り、真っ赤だった。車の方の信号は、とっくに青になっている。
それなのに、よろよろとした足取りで男が渡ろうとするものだから、もう非難ごうごうだよ。何台ものクラクションや、ドライバーからの罵詈雑言の大合唱。どけとか、消えろとか、ここぞとばかりに急かしたり野次を飛ばしたりしてくる。男が交差点で転んでしまっても、居合わせた歩行者たちは、拱手傍観しているだけ。四面楚歌で、誰も助けてくれない。

そうしているうちに男は、ついに転んでしまった。ほふく前進をしてでも進もうとしたみたいだが、身体が疲れ切っていて動けない。本当なら、周りに自分を追い越してほしくて仕方がない性分なんだから、よほど諦めようかと思ったことだろう。

だけど、その時、ふっと周りが静かになった。
クラクションも、車の排気音も、人の足音も、声も。
晴れ渡る朝の空に吸われたみたいに、雑音が何もかも消え去った。

男は、立ち上がった。
まるで自分の存在がすっかり赦されたように。
信じられないくらい洗練された動きで、すっと。

みんな、目をかっ開いて、それを眺めているしかできなかった。
既に十二時間以上も歩きすぎて、膝をやられてガクガクだった男は、ぎこちなく見えるくらい大股で、横断歩道を渡り切った。
どっと倒れこみそうになったが、男は数歩、小走りになって、体勢を立て直した。
衆目がそそがれても気にも留めず、ふたたび足を前に出した。
男の頭上には、高速道路が通っていた。そこを猛スピードで通り過ぎていた連中は、まさか自分たちの足下で、世にも退屈でのろのろとしたやり取りがなされていたとは、予想もできなかっただろう。

ここまでが、後から聞いた話だ。
男は自分の家に帰り、愛娘のアンナと再会できた。ものすごく嬉しかっただろうな。もしかしたら娘は、病気で働けなくなった父親のことを、妻と一緒になって侮蔑していたかもしれないじゃないか。それなのに、ずっと待っていてくれたとラジオで聞いて、居ても立ってもいられなくなったんだろう。
家庭裁判所の調停を挟んで、正式に離婚できたのは、本当に良かったよな。男は、家族から離れている間に、ぼちぼち病気が快復して、働き口も見つけることができた。娘の親権をちゃんと獲得できて、ゆっくりゆっくり養うことができるようになったようだ。

今の話は、たった今、おまえさんから聞いた話だな。
せっかく熱々のラーメンを作っているんだ。伸びる前にすするのが礼儀だよ。ライスも、ほかほかのうちに食べた方がいい。と言っても、うちは冷めても美味しい良質な米を使っているがな。
可愛い娘ちゃんが、隣で待っててくれているんだ。好きなように食べたらいい。
食べたら、さっさと帰りな。


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