見出し画像

これからはアサーティブに

ライトノベル作家を目指していた頃は、とにかく自分を捨てなければならないと思い込んでいた。

ライトノベル作家を目指したといっても、私はそもそも、プロが書いたライトノベルの文章の軽さが、どうしても好きになれなかった。
シーン作りや設定の浅さなどは、まだ我慢できる。
心情描写が説明くさかったり、形容が薄かったりすると、途端に堪忍袋の緒が切れた。

それでも、その作家たちは、文学賞を取って本を出版している。シリーズ化して続刊したり、アニメ化したりと、活躍の場を広げている。
その事実に勝てず、私はしだいに、自分を捨てなければならないと思うようになった。

この場合の「自分」というのは、個人的な好みや、理想像のことだ。
私は分厚くて緻密な文章が好きだ。
でも、みんなのために、もっと平易で読みやすい文章でなければならない。
私は含蓄のある、リアルな内容が好きだ。
でも、みんなが好きそうな、シンプルな内容でなければならない。
さもないと、認めてもらえない。
そんなふうに焦っていたのだと思う。

当時、眼前には、職業として創作をする道と、社会人となって日銭を稼ぐ道とがあった。
さながら農耕のような働き方と、狩猟のような働き方との、分岐点だった。

小説や漫画などのクリエイターになりたくても、生きる糧を得られないのなら、創作を諦めざるをえない。運がよければ、趣味として、ゆったりやるしかない。
自分の希望を偽って、興味のない業種の求人に応募する。履歴書の志望動機に、御社が第一志望ですと書く。面接に赴き、圧迫されても耐える。その繰り返し。
だって、本命の業種は、狭き門だから。
その門を通ることができるのは、一握りだ。

じゃあ、もしその狭き門を通ることができたら、どうなの?
創作の道に立てば、そこからは真に自由に生きられるの?

やっぱり自分を偽るんじゃないの?
自分を捨てなきゃ、認めてもらえないのは、変わらないんだから。

さまざまな葛藤を経験したが、最近になって、少し違う考えが浮かんだ。
自分を偽ってばかりでは、いけない気がしてきたのだ。
どこまでをフィクションにして、どこまでノンフィクションを出すかは、作品のジャンルや作者の意向による。
だが、作者のエゴをかなぐり捨てて、すべてを「読者が読みたがる嘘」で構築するのは、高等技術だ。

作中で描かれているのが、生きた人間であるならば、作者の心の鏡に映すことができない感情は、嘘っぽいとは言えない。薄っぺらい。
作者自身が、徹底的に無感情で嘘つきであるわけにはいかないと、考えを改めようと思ったのだ。

好きなものを、好きだと言えますか?
感じたことを隠さず、人に伝えることができますか?
私は言えません。私の意見や感情は必要とされないことが、とても多かったから。

だが、時代は変わった。
これから、孤島に幽閉したままの本当の自分を、連れ戻しに行く。
もう今は、協調性とか量産品とか、そんなものは必要とされていない。
安心して、戻ってきてもいい。
そう声をかけて、辛抱続きの歳月をねぎらいたい。

自分の意見を、アサーティブに言葉にする。
そのための強さを、今年一年かけて育ててみたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?