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短編小説「大卒ぼんくら」

最後に、彼女は言った。
「あなたは、きっと何言われても、わかんないよ」
顔はこちらを向いているのに、まともに目を合わせともしない。
うんざりしたような表情を背けて、玄関のドアノブをひねる。
その華奢な背中に、俺の影が必死にすがりついている。
だけど彼女はひとりで玄関を出る。まばゆい白日が、彼女を迎え入れるように陽射しを下ろしている。
そんな光景も束の間。容赦なく閉められたドアが、俺の鼓膜をびくっと震わせた。

ベッドにぐったり横たわったまま、ずぅっと天井を眺めていた。
他にできることがなかったのだ。こうやって視線でなぞるだけで、塵や埃が払い落とせるのなら、部屋の天井がくまなく清拭されただろう。夜が明けたらピカピカになっていたはずだ。そんなことを妄想しながら、シーツに釘付けになっていた。
だが、人間というやつは、機械よりもずっとしぶといものだ。
だって今、俺の視界に飛び込んできたのは、あのマンションの部屋の天井ではないのだから。

帰ってきた。昨日、生家に。
木造家屋のにおいのする、古い子供部屋の天井が、頭上に広がっている。
不思議なものだ。六年も前に、国立大学を卒業して、社会人になった。一人暮らしを始めた初日は、この部屋が無性に恋しくなったっけ。
あいにく、あの時は、父親がまだ存命だった。電話やメールで弱音を吐くなんてできなかったし、一時的な帰省さえ、もってのほか。仕事を辞めたなどと父の耳に入ろうものなら、雷が落ちるなんてものではない。サンダーストームだったろう。

久しぶりに飛行機の旅をして、JR駅から実家まで歩いてきたせいか、まだ体中が重く疲れている。鉛のような上半身を庇いながら、ベッドから起き上がる。
カーテンを引っ張ってみると、昼間の街並みが垣間見えた。
今日は曇天だが、雲が薄いのか、空が一面、真っ白に見える。

のろのろと起き出し、スウェットのまま部屋を出る。
だいぶ寝汗をかいたようだ。頭がかゆい。肩甲骨が凝っていて、背中がごわごわする。軽く両肩を回しながら、階段を下りていく。

居間には誰もいない。テレビもついていない。
ローテーブルには、一人分の朝食の支度がされているた。目玉焼きと焼きサバ、キュウリの浅漬け。茶碗と、味噌汁のお椀は伏せられている。
そばにはメモがある。
「外科に行ってきます ご飯をよそったら 炊飯器を切ってね」。
そういえば母さんは、膝が痛いと言っていたか。しばらく会わないうちに、ずいぶん年寄りじみた足の運び方だと思ったっけ。
実家に帰ってきたと言っても、同居人の形跡があるというだけで、一人暮らしの時と然して変わらない。暖房がついていないから、南向きの窓のある室内でも、うっすらと寒く感じる。

台所に行って、冷蔵庫を開けてみる。
飲み物は、麦茶と牛乳くらいか。朝はどうしてもコーヒーが飲みたくなる。社会人になってから始まった習慣だ。買いに行くしかない。

いったん部屋に戻って、手早く着替える。昨日とまったく同じ服装だが、構いやしない。財布とスマートフォンを、ブルゾンの両ポケットに突っ込み、玄関へ向かう。
商店街の向こうの公園のそばに、自動販売機があったはずだ。散歩がてら行ってこよう。

外に出ると、思いのほか外気が澄んでいて気持ちが良かった。足腰もまあまあ元気だ。
二年間交際した彼女と別れてから、しばらくは心も体も腐っていたものだった。塾講師の仕事も、ずいぶん前からマンネリだった。それならいっそのこと転職を考えようかと、母さんに電話口で伝えた。
すると母さんは、途端に声を弾ませた。
帰ってきたらいい。仕事はこっちで探せばいいよ。一緒に暮らしましょう。なんなら引っ越しの費用を出してあげる。
そこまで言われて、地元に帰らないわけにはいかなくなった。

去年、父が心筋梗塞で他界してから、ずっと母さんは独りきりでこの家を守っていた。葬儀の後、俺もろくに一緒に居てやらなかった。俺が家に帰れば、寂しくなくなると判断したのだろう。
そういう利用のされ方なら、願ったり叶ったりだ。こちらも、利用させてもらおう。新しく仕事を見つけるまで、のんびり羽を伸ばしてもいいはずだ。貯金も少しならある。切り崩して生活したとしても、食住に困らないのは、実家暮らしの特権だろう。

自動販売機で缶コーヒーを買い、近所の公園へ立ち寄る。
誰もいないブランコに、どっかと腰を下ろし、スチール缶のプルタブを起こす。

視線の先には、ベビーカーを押す若い母親の姿があった。そのすぐ脇を、乗用車やトラックが、遠慮会釈もなくスピードを出して往来している。

地方は、少子化だの過疎化だのと、舌鋒鋭い有識者たちがずっと警鐘を鳴らし続けている。
ところがどっこい。弱者に対して容赦ない連中だって、現実には少なからずのさばっているものだ。
かつては自分自身も赤ん坊だったとはいえ、そこは喉元過ぎれば熱さを忘れる。弱い立場の人が、どういうことに怖いと感じて、どういう対策を取られたいか、寄り添う気持ちなんて毛頭ないのだろう。
頭が良くて見識のある連中が政府の要職に就いているのだろうけど、そんな事情は実際の政治には反映されるとは限らない。
どうだっていいのだ。俺もみんなのことはどうだっていいし、俺のことも、みんなはどうだっていい。政治家だって、もちろん俺たちのことは、どうだっていいはずだ。
博愛主義なんて架空の産物だ。親でさえ、子供が成人して家から出たら、せいせいすると思っている。子供を大学までやるのも、親の虚栄心を満足させるためでしかない。だって、学費を出すのは子供本人ではない。親なのだから。
みんな、誰かを利用しているのだ。自分のためだけに。

――国立大学出たのに、塾の先生しかなれないとか、無能の証拠でしょ。

嫌なことを思い出した。
俺が教鞭を取っていた学習塾に通う、男子高校生に言われたことだ。
三角関数の問題すら解けないくせに、侮蔑の言葉を突き付けられた。

あんな誹謗をされたら、テキストを投げつけてやりたくもなるじゃないか。むしろ、ぐっと堪えられるような聖人君主に、なれるわけがないじゃないか。生意気な子供から侮蔑を受けて、寛容でいられる人が、どこの世界にいるというのだ。
親も親だ。あんな出来の悪い息子のために、わざわざ塾までやってきて、抗議してきた。受付のカウンターをどんどん叩いて、俺を辞めさせろと訴えてきた。
あんな乱暴なことをするなんて、俺とさほど変わらないではないか。まったく狭量な暇人だ。少しは、ぐっと堪えてみろよ。俺に堪え性を要求する前に、自分が堪えてみろ。できなければ親を辞めろ。まったく、ばかばかしくて鼻水が出る。

腹立ちまぎれに、コーヒーの空き缶を握りつぶそうとしたが、スチール製だったから、びくともしなかった。
仕方なく、それをブランコに置いて、悠々と立ち去ってやる。

横断歩道を渡ると、小規模な商店が建ち並ぶ通りに出た。
この辺りも、前はにぎわいを見せていたのに、近いところに大型商業施設ができたせいで、門前雀羅を張っている。すぐそこにゴミステーションがあるから、生ごみ目当てのカラスくらいならいるが、人の行き来はほとんどない。

だが、一軒だけ、シャッターが半開きになっている店舗があった。
他の店は、素っ気なくシャッターを下ろしているのに、何故かここだけ開いている。こんな、表通りに面したところの店が、夕方に開店なんてするだろうか。
ひょっとして居酒屋なのだろうかと、看板を確認しようとした時、店の中から、一人の男の子が姿を現した。シャッターの下をくぐり、歩道へ飛び出してきたのだ。

小学校高学年くらいだろうか。手には、コピー用紙を一枚、それから茶色いガムテープを持っている。どうやら、シャッターに貼り紙をしようとしているようだ。ガムテープがくっついて、うまく切れないらしい。
さっきの身のこなしは俊敏だったが、手先はそれほど器用ではないと見える。俺は、さっと行って、コピー用紙をシャッターに押さえつけてやった。
ちらと見えたその用紙には、かすれたペン字で「合言葉は?」と記してある。
男の子の方を見やると、彼はにこっと笑った。
「このことは、秘密にしてもらえませんか」
「このことって?」
「俺たちの集まりのことです」
集まりって、テロリストたちの決起集会でもあるのだろうか。それにしては、こぢんまりとした空き店舗が、会場に選ばれているようだが……。
「良かったら、お兄さんも来ます? 大人の人がいた方が、誰か通りかかった時に、カムフラージュになるんで」
爽やかそのものの笑顔を残して、男の子は、紙をシャッターに貼りつけると、店の中へと戻っていった。

あの男の子、話し方がはきはきしていて、年齢のわりに大人っぽい印象だった。だけど、どうも好感度に結びつかない。まだ低年齢だろうに、如才ない態度で、違和感がある。
俺は、彼に誘われるまま、シャッターをくぐることにした。

狭い店内には、半世紀前に買ったような、黄ばんだテーブルとスツールとが規則的に並べられていた。
クリーム色に塗られた壁には、掲示物はない。かろうじて、ポスターやメニューなどが貼られていた形跡はあるようだ。日焼けを免れた白い四角が、等間隔に並んでいる。昨夏の痛烈な熱波を彷彿させた。

奥の厨房にはもう一人、女の子がいた。使い捨てマスクをしているため、年かさは推測するしかないが、たぶんさっきの男の子よりも少し下くらいだろう。彼女はこちらに一瞥をくれただけで、木べらで寸胴鍋をかき混ぜ続けている。
さっきの男の子は、厨房へ引っ込んでいたが、足早にこちらへ出て来た。手には割り箸が握られ、醤油の大きいボトルを小脇に抱えていた。
俺が当惑していると、男の子は着席を促してきた。
「みんなが来る前に、味見してもらえますか? 俺は薄味が好きなんだけど、妹は味が濃いのが好きだから、いっつも対立するんです」

奥から運ばれてきたのは、豚汁だった。白米と野菜炒めも、プラスチックのプレートに盛り付けられている。できたて、ほやほや。生姜と味噌のにおいを嗅いだだけで、よだれが出てきそうだ。

俺は早速、割り箸を使って、豚汁をすすった。
その間も、兄妹はこちらを見つめている。なんだか居心地が悪くて、あまり味がしない。
野菜炒めのキャベツを口に運ぶと、なかなか良い味だった。炒め方もほどほどで、芯の食感が柔らかすぎなくて良い。
「うん、いいと思う。味付けも、ちょうどいい」
「えー! 俺は濃いと思うんだけどぉ」
ふてくされた男の子が、笑いながら、妹へ視線を向けた。
彼女は、俺から好評を得られて、喜色満面だった。

そんな時だった。
何人かの子供たちが、シャッターをくぐってきた。
おのおの、勝手知ったる様子で席に着く。俺が先客としていたために、きょとんとして見つめてくる子もいたが、きちんと挨拶してくれる子もいた。

すると厨房から、さっきの男の子が、声を張り上げた。
「おい、みんな! 合言葉を忘れてる。合言葉は?」

到着したばかりの子供たちは、口々に叫んだ。
「『この国はもうダメだ』ぁー!」

俺は度肝を抜かれて、手が止まってしまった。
しかし子供たちは、お互いに笑い合っている。どうやら、こう言って笑い飛ばすマナーのようだ。
何事もなかったかのように、おしゃべりに戻る子もいれば、配膳を手伝う子、テーブルに頬杖をついて目をつむっている子もいる。髪を茶色に染めている女の子もいれば、肌寒い今時分に半袖姿の男の子もいる。帽子を脱がずにご飯をほおばったり、クイズを出し合いながら笑ったり、思い思いにくつろいでいる。

俺もおもむろに食事に戻った。豚汁を平らげると、空いた食器を持って、席を立った。
厨房に来ると、盛り付けをしている妹の隣で、兄である男の子が、泡だらけのスポンジを使って洗い物をしていた。

「あのさ、ここって、いわゆる子供食堂ってやつ?」
俺はひそひそと声を殺して尋ねる。
すると、男の子は慌てたように、首を横に振った。
「違います。その名前は、違うんです」
「何が?」
「貧乏なやつが利用するっていう印象を持たれるらしくて、誰も使わないんです。俺たちは何て名前でもいいんだけど、大人がそういう体面をどうするか話し合ってる間に、給食しか食べ物がない子たちが増えちゃったんです。だから、もういっそ、みんなで食べようって呼びかけるしかないって思って。そうしたら、みんな弟や妹も呼んできて、一クラス分くらい集まったっていう」

そういえば、俺が勤めていた塾にも、痩せぎすの生徒が何人かいた。中には片親がいなかったり、事情があって祖父母の家から塾に通ったりする子もいた。塾の授業の合間に、家に食べ物がないとか、生活物資が足りないといった話を打ち明けられたこともある。

俺は、そんな話を、いつも聞き流していた。彼らの生活を指導するのは、俺の業務外だったからだ。

だが本当は、あの打ち明けられた話は、俺という大人に対して投げかけた、SOSだったのではないだろうか。

そうだ。あの男子高校生もそうだった。塾講師をしている俺を、国立大を出た無能と揶揄してきた高校生だ。
自分ならこんな小さい職場で収まらないだの、もっと稼いでやるだのと、野心的なことばかり、うそぶいていた。そんなことを平気でしていたものだから、おのずと友達に見放されていった。
俺も彼の話を、真面目に聞く気がなかった。もちろん、何も行動しようとはしなかった。困り事に対して、親身になって傾聴するでもなく、手を差し伸べてやることもしなかった。
だから彼は、俺を無能だと言ったのだ。覚悟を決めてSOSを発信しても、肝心な大人が無反応だったからだ。

みんな、知っていたのだろう。
俺は無能のぼんくらだと。

同僚も、教え子も、当時の彼女でさえも、知っていたのだ。
俺は、何を言ってもわからないやつなのだと。

そうだよ。無能だよ。バカだよ。何を言われてもわからないバカのぼんくらだ。俺の耳は、馬のそれと同等のものしか付いていない。ろくに話を聞けやしない。聞いたところで、気の利いた計らいなどできやない。学校で習ったことしかわからないし、わからないことは言い訳して、うまくごまかしていた。
そんな俺に、みんなは諦めていたのだろう。
それだけなら、まだましだったのかもしれない。軽口を叩いたあの男子高校生に、俺は暴力を振るった。テキストを投げつけて、思い切り怒鳴りつけた。それが一番のバカだった。あんなことをされて、あいつ、どれほど絶望したかわからない。

「ねぇ、お兄さん。もし良かったら、みんなが帰るまで居てくれませんか?」
ふと見ると、男の子が俺の顔を覗き込んでいた。
「俺たち二人が主催者ではあるんだけど、正直、心細かったんです」
兄と妹は、歯を見せて笑った。その表情がそっくりで、俺はとっさに、ぎこちない表情を返すしかできなかった。

そんなふうに笑いかけないでくれ。誤解しそうだ。俺はまだ、やり直せるのだと。わからず屋のぼんくらだったけど、相手の心をわかってあげられるように、なれるかもしれないと。
自分の可能性を思うなんて、俺ってまだ若いのかな?
そんなことを考えただけで、不覚にも顔がほころんでしまった。

子供たちにせがまれて、俺はしばらく、そこに居ることにした。
だらだらと居続けたおかげで、帰路に就いたのは、夜もとっぷり更けた頃だった。

家の敷居を跨いで居間を覗くと、テレビを見ていた母さんが、首を振り向かせた。その表情ときたら、呆れてものも言えないといったふうだった。
「どこ行ってたの? こんな時間まで、炊飯器のスイッチが入ったまんまだったよ」
「あぁ、ごめん。家のこと、すっかり忘れてた」
「何か、いいことでもあったの?」
母さんが少しだけ、険しかった表情をやわらげた。
どうしてわかったのだろうか。いいことがあったということを。
いや、そんなことは愚問だ。俺以外のデリカシーのある人たちには、わかるのだ。たぶん俺の顔に、はっきりと書いてあるのだろう。
「ちょっと、子供の……」
「えっ?」
「いやいや、これは秘密だった。テロリストのアジトを見つけたの。ただそれだけ」


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眠れない夜に

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