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責任を負う者について、話したことがありましたか?

ブルーアーカイブについて考える記事の第5弾、「責任を負う者」についてです。
今までの記事はこちらにまとまっています。

どうして「責任を負う者」について考えるのか

ブルーアーカイブだけでなく、神秘と恐怖色彩について考えている辺りでおわかりでしょうが、阿吹はブルーアーカイブの最終編「あまねく奇跡の始発点」が大好きです。

一時期は「責任を負うものについて、話したことがありましたね。」と聞くだけで涙がこみ上げてきており、同様の症状の友人と二人で「責任を負うものについて、……!」とだけ呟いては言葉を続けられないという地獄の通話をやっていました。

ただ、twitterでの感想などを見ると、どうも最終編に対して好意的な見方だけではないようです。
まあなんであっても好きな人もいれば嫌いな人もいるわけで、当然といえば当然です。それはそう。

見ず知らずの人 が何を言っていてもそんなに気にしないのですが、長年勝手に一方通行でフォローし続けている人が微妙な反応をしていたので、この反応はどういう読解に基づくものなんだろうと気になってきました。
その人はあんまり多くを語らなかったので、最終編を面白く読み解けない読み方について自分の中でしっくりくる見方になかなかたどり着けず、たくさん考えることになりました。

最終的に、多分こういうことかなという話を思いついたので、責任についてと合わせて書いてみようという趣旨です。

ブルーアーカイブは匂わせまくるが全ては語らない

最終編について考えるにあたって、ブルーアーカイブ全体の特徴を振り返っておきましょう。
透き通っているとか青いとか色々ありますが、最終編を気に入らなくなる要素としてまず目につくのは「全ては語らない」ということかと思います。

ブルーアーカイブは全ては語りません。キヴォトスがなんなのか、神秘と恐怖についても具体的な説明はしませんし、ゲマトリアの人々はいつも思わせぶりで詩的な発言をしてはこちらを煙に巻いてきます。
いえ、より正確にいうと説明はしてくれるのですが、その説明は他の明かされていない設定や特別な意味を持った言葉を前提としていて、さらなる疑問点が出てくるのです。
明快に明言されるのは、黒服が先生を好きなことくらいです。

最終編はこの流れの最たるもので、カイザーグループがアビドス砂漠で何を探していたのか、アトラハシースの箱舟とは何かなどたくさんの設定が明らかになり、それと同時にたくさんの不明点がばら撒かれました。

神秘と恐怖とは何か色彩とは結局何だったのか、など大きい疑問についてはこの間の記事に書いたとおりです。
※一応念のため言っておくと、書いた記事がかんぺき~に正解だと言っているわけではなく、現時点での俺の答えはこれやということです。

この最終編の流れの中で、プロローグにおいて示された、つまり初見の人を惹きつける目的で作成された、ブルーアーカイブにおいて最も魅力的な謎であるところの、連邦生徒会長による語りが再演されます。
それがつまり、「責任を負う者について、話したことがありましたね」についての一連の語りです。

……私のミスでした。
私の選択、そしてそれによって招かれたこの全ての状況。
結局、この結果にたどり着いて始めて、あなたの方が正しかったことを悟るだなんて……。
……今更図々しいですが、お願いします。
先生。
きっと私の話は忘れてしまうでしょうが、それでも構いません。
何も思い出せなくても、おそらくあなたは同じ状況で、同じ選択をされるでしょうから……。
ですから……大事なのは経験ではなく、選択。
あなたにしかできない選択の数々。
責任を負う者について、話したことがありましたね。
あの時の私にはわかりませんでしたが……。
今なら理解できます。
大人としての、責任と義務。
そして、その延長線上にあった、あなたの選択。
それが意味する心延えも。

最終編第3章「アトラ・ハシースの箱舟占領戦」11話「はじまりの物語」

この語りは、結局「責任を負う者について連邦生徒会長と先生が何を話したのか」「連邦生徒会長はどうしていなくなってしまったのか」などの重要な謎を残したままで、爆発音とともに視点を現在に戻して話は続きます。
先生が死にかけているときに見た走馬灯のようなものだったというわけです。

「最終編」と銘打っているのであれば、プロローグにおいて示されたこの最も魅力的な語りに対して何らかの回答が示されるだろう、という期待を持って読んでしまうと、確かにここで肩透かしを食らったように感じてしまうかもしれません。
こうした期待とその未達が、最終編に対する「最終編って言うならもっとちゃんと風呂敷を畳めよ」という気持ちをもたらしてしまうのかもな、と思いました。

それは確かにその通りなのですが、しかし連邦生徒会長の謎を詳らかにしてしまうとブルーアーカイブという物語自体がわりと完結してしまうというか、有り体に言えばサービス終了の感が出てきてしまうので、メタ的に見るとこの謎は最後まで、もしくはこれと同程度に大きな目的が出せるようになるまで謎のままで残されるだろうなというのは思っていました。
FGOにおける人理焼却なので。

なので、まあ解決されなくても仕方ない……というか解決はしないだろうとはなから思っていた阿吹は、この肩透かし感を回避して物語を楽しみ切れたという事情はあったように思いました。

結局最終編で回収されなかった連邦生徒会長と「責任を負う者」についてですが、しかし既存の情報だけで考えてはいけないわけではありません。
というよりも、ブルーアーカイブはきちんとした説明こそあんまりしないものの、参考になるような情報をたくさん匂わせてきて「だいたいわかった」という気持ちにさせてきがちなので、なんとなくこういうことなのかなという推論はできそうな感じがあります。

ということで、責任を負う者について考えてみましょう。

責任について語っていた回

さて、先日公開されたVol.4カルバノグの兎編第2章は、「責任」について珍しく明瞭に、かつ大量に語られた話でした。
先生とミヤコの会話から、先生が責任について語っている箇所を引用してみましょう。

「責任を負う」というのは、苦行を背負うことじゃないよ。
嫌なことを引き受ける事でもーー
ーー間違った行動に対する、罰でもない。
「責任を負う」というのは、自分の行動に後悔がないようにーー
心の荷を解く、楽しいことじゃないとね。

Vol.4カルバノグの兎編2章第16話「先生の事情」

これだけでもかなり偏った物言いであるというか、先生が「責任」という語について何らかの思想を持っていることがわかります。
実際、ミヤコも「責任という言葉に「行うべき義務」以外の意味があるのですか?」と問うています。
一般的な使われ方としては、責任というのは「行うべき義務」とか、「引き受けるべき行為の結果」などの意味で使われます。この点については、キヴォトスでも同様のようです。

次いで、先生が責任について語っている箇所をもう1つ、最終編プレナパテス決戦から引っ張ってきました。

子どもの「世界」が、苦しみで溢れているのなら……
子どもが、絶望と悲しみの淵でその生を終わらせたいと願うのならーー
そんな願いが、この世界のどこかにまだ存在するというのならーー
それはーー
その「世界」の責任者のせいであって、子どもが抱えるものじゃないーー
世界の「責任を負う者」が抱えるものだよ。
たとえ罪を犯したとしても、赦されないことをしたとしてもーー
生徒が責任を負う世界なんて、あってはならないんだよ。
いつ、いかなる時であってもーー
子どもと共に生きていく大人が背負うべき事だからね。

最終編プレナパテス決戦STORY(6)

バッキバキですね。思想が強すぎる。
もう言うことなくないですか?

言うことがなくなってしまったような気がしなくもないですが、これで終わらせてしまってはこの記事の意味もあんまりなくなってしまうので、まだもうちょっと続きます。

責任を負う者について話してみましょう。

先生の言う「責任を負う者」

先生の「責任」に対する思想はなんとなくわかったのですが、連邦生徒会長と語り合ったという「責任を負う者」についてはまだもう少し考えないと不明瞭です。
先生が「責任を負う者」について明言したのは、先ほどの「世界の「責任を負う者」」というところのみだと思います。

ここでいう「責任を負う者」は、一見するとおよそ一般的な使われ方とそんなに違いがないように見えます。
一旦まとめてみましょう。

  • 子どもが自分を責めて世を儚んでしまう必要はないし、そんな世界はあってはならない。

  • そうした苦しみが存在するのはその「世界」の責任者のせいで、世界の「責任を負う者」が抱えるものである。

何か少し違和感がありますね。
2文目の前半はともかく、後半が若干意味を取りづらい気がします。

前半は、「子どもが希死念慮を抱くような苦しみが存在するのはその「世界」の責任者のせい」だということで、これはよくわかります。
いじめ自殺が発生すると校長や教育委員会が謝罪するのと同じです。管理責任ということですね。いじめという単語は犯罪を矮小化しがちであまり好きではありませんが、簡便のために使用します。

後半は、「抱える」対象が、苦しみなのか責任なのかというところでわかりにくさが生まれている様に思います。
そして、「責任を負う者」が責任を抱えるというのはトートロジーな表現になってしまうので、実はここで抱えているのは苦しみの方なのではないでしょうか。

つまり、子どもが辛さや苦しみを感じていること、子どもにそうした苦しみを与えるものが存在してしまっていることに対して、「責任を負う者」は希死念慮を抱くほどに自責の念を感じ、その上でこれを取り除くべく対応しなければならないということを言っているのではないでしょうか。
かなりうがった見方になってしまいましたが、しかし先ほどの引用箇所のバキバキ具合からは、このくらいの「覚悟」があるようにも見えます。

責任を負うことは楽しいことじゃないとね(ガンギマリ)

ところで、先生は「責任を負う」ということ自体には、意外と(?)好意的な見方をしています。

カルバノグ2章でミヤコに対して語ったところによると、以下のとおり。
責任という語から一般的にイメージされる否定的な側面を軒並み否定しています。

  • 苦行を背負うことではない

  • 嫌なことを引き受けることではない

  • 間違った行動に対する罰ではない

代わりに、以下のように述べます。

  • 「責任を負う」というのは、自分の行動に後悔がないようにーー心の荷を解く、楽しいことじゃないとね。

ここは放っておくとどんどんと大変な方に自らを追い込みがちな生徒(ミヤコ)に対して言葉をかけているので、言ってみればミヤコの気を緩ませるための方便であるという見方もできなくはないです。

しかし与えられたテクストがこれだけである以上、これを基に考えるべきでしょう。
あと、従来の先生像から受ける印象とそんなに変わらないので、多分本心で言っています。

つまり、生徒の苦しみを代わりに背負い、その苦しみの原因を取り除くために自らを犠牲にすることは「心の荷を解く、楽しいこと」であると本心から思っているようです。

なにせ先生は、連邦生徒会長から「おそらくあなたは同じ状況で、同じ選択をされるでしょう」と評されるほど固い信念を持っており、しかもシロコ*テラーを救うためにその身を犠牲にした前例(プレナパテス)を持っているのですから。

端的に言って、それなりに異常者だと思います。

生徒の健やかな成長と未来に人生を賭ける覚悟が決まりすぎている。

あとまあ言ってしまってはなんですけど、結構刹那的というか、自己保身を考えていませんよね。

先生の異常性と連邦生徒会長の誤算

この先生の異常なまでの自己犠牲精神を認識して初めて、連邦生徒会長との間でどういうやりとりがあったのか、わかるような気がします。

先生と連邦生徒会長の対立

まず前提として、先生と連邦生徒会長との間には、どうも意見の対立があったように見えます。

というのも、先ほど引用したプロローグにおける語りにおいて、連邦生徒会長は「私のミスでした」「この結果にたどり着いて始めて、あなたの方が正しかったことを悟るだなんて」「今更図々しいですが」などの、自らの選択を後悔し、先生に分があったというような物言いをしているからです。

そして、連邦生徒会長は「失敗」した結果、血まみれになっていました。銃弾が当たったくらいでは痛がる程度にしかダメージを受けないキヴォトスの生徒にとって、異常事態です。

ただ、一体どういう問題が起こった結果こうなってしまったかについて考えるのは、あまりにも材料が少なすぎます。
ひとまず先生と連邦生徒会長による意見の対立の中身についてのみ考えましょう。

連邦生徒会長は、自分は間違っていた、先生の方が正しかったという物言いをしていました。
しかし先生は、生徒に対して自分の考えを押し付けるようなタイプではありません。カルバノグ2章においてミヤコに対して責任について語ったのは、それなりに珍しい事態でした。

横道:先生の生徒の自主性に対するスタンス

普段は生徒の自主性を重んじる先生ですが、責任感から進退窮まって「こうするしかない」と思い詰めてしまったミヤコに対しては、他所からの介入がなければこのまま突き進んでしまうと危機感を抱いたのかもしれません。
先生自身、「責任を負う者」として覚悟が決まりきっているため、思い詰めてそのまま行動する未来がありありと見えたのかもしれません。

あと、生徒自身の自主性を重んじるとはいっても、明らかに生徒が後悔しそうな選択をしそうになっている場合は放置せず介入している印象があるので、ミヤコへの忠告は、この一環だったように思います。

例えば、いくらアビドスの借金を返すためとはいえ、シロコが純粋に借金返済のために銀行強盗を敢行しようとすれば止めようとしますし。
本編の銀行強盗は、実際に危害を加えてきていた相手に応報したということで、ひとつ……。
逆に言えば、生徒自身が全く後悔しないようなことであれば全然止めないので、美食研究会のテロ行為や天羽アコのわんちゃんプレイは全く止めないんですよねあいつは。

責任感から突っ走る連邦生徒会長

ともあれ、普段は生徒の自主性に任せがちな先生のことなので、連邦生徒会長に対しても、変わらない対応をしていたと思われます。
つまり、普段は連邦生徒会長の自主性に任せて、起こった事態について後からフォローするという前提で動いていたものと思われます。

しかし、プロローグに繋がる何らかの問題が発生した際は、連邦生徒会長も責任感に追い詰められて「こうするしかない」と思い詰めてしまい、その姿に危機感を覚え、結果として連邦生徒会長が後悔するであろうと思った先生が諭すために「責任を負う者」について語ったのではないでしょうか。

つまり、生徒は責任を負う者ではないから、大人を頼ればいいと。

ちょうど、カルバノグ2章でミヤコに対して語ったのと同じ構図です。

連邦生徒会長はあんまり仲が良かったわけではなさそうな不知火カヤをして「超人」と言わしめるほどの、つまりなんでもできてしまう人だったようです。
カヤの語り口からは、なんでもないような顔をしてたくさんの作業をこなし、誰からも慕われ、みんなを導いていたという風に見えます。

そのため、プロローグの発端となるような何か大きな出来事が起こったときも、いつものとおりに自分で解決しようとしたのだと思います。
より具体的に言うと、連邦生徒会長が「今までなんだってやってきたしやってこれたから、今回も自分たちで解決しなければならない。なぜなら自分たちが解決するべきことだから」と調月リオみたいなことを考え始め、先生はそれを諫めたのではないでしょうか。
しかしそれまでなんとかできてしまっていたせいで、連邦生徒会長はそのまま一人で突っ走ってしまい、結果なんらかの致命的なエラーやミスが発生して「ああ」なってしまったのではないでしょうか。

アロナはふざけがちですが、責任感が強くてシッテムの箱のOSとしての役目を果たすことに真剣です。
連邦生徒会長とアロナが何らかの関係があり、そして恐らく同じような性格であると思われるため、連邦生徒会長もふざけたようなことばかり言うくせに責任感が強くてなんでも自分で片付けてしまおうとするような人だったと思われます。

ということで、先生と連邦生徒会長の間では、「がんばりすぎ。こういうときのために大人がいるんだよ」「何を言ってるんですか。キヴォトスの危機に連邦生徒会が動かなくてなんとします」「この世界を運営する大人こそが責任を負う者であって……」「うるせーーー私が解決してきてやりますよ!このソードマスターがね!!」みたいな会話が行われたのかなと思います。

多分最後までふざけてたと思うんですよね。先生のことだって心配させないように。

連邦生徒会長と調月リオ

こうして見ると、表面上が真面目くさっているかふざけているかの違いだけで、実は調月リオと連邦生徒会長って結構似たもの同士だったのかな、という気がしてきました。
だからこそ、連邦生徒会長に対して適切な対応を取ることができずにプロローグの事態に陥っている以上、先生ひとりでは調月リオにも適切な対応を取ることはできなかった、ということなのかもしれません。
調月リオに対して適切に対応できるのであれば、連邦生徒会長に対しても適切に対処できたはずなので。

このように、既に2つの失敗を経験してしまったからこそ、責任感が強くて自分でやらなければと思い詰めてしまう生徒に対しては自分の思想を開陳してでも思い直させようとした、というのがカルバノグ2章だったのかもしれませんね。

大人としての責任や義務、それが意味する心延え

話を戻します。
プロローグの直前の時点で、先生は大人としての責任と義務を果たそうとして、何らかの選択をしたようです。
多分、ことここに至るまで、連邦生徒会長は先生が何を考えているのかわからなかったのではないのでしょうか。

「それ(大人としての責任や義務、その延長線上にある選択)が意味する心延え」というのは、先生のやばすぎる自己犠牲精神のことを指すことと思われます。
こんな生徒のためなら迷わず自らを犠牲にする異常者が存在するとは普通思いませんからね。
実際に事が起こって初めて、先生の心延えを実感することができたということなのでしょう。

まとめます。

先生のことを口先だけで責任だの何だの言う信用できない大人だと思っていたところ、実際に強烈な自己犠牲を見せ付けられて今までの行動全てに得心がいき、今なら信じられる……となった状況が、プロローグのあの口上につながったものと思われます。

連邦生徒会長が何を失敗してああなったのか?は依然として疑問が残るところですが、これから先の物語で語られることを信じましょう。

ですから、今度こそは、先生とアロナが互いに手を取り合って、連邦生徒会長が対処しきれなかった何らかの出来事を解決することができたら良いな、と思います。
これは祈りです。

おわりに

ここまでたくさんの紙幅を費して、いかにも当たり前のことを語ってきたなと思われる方もいるかもしれません。

しかし思い返してほしいのですが、今回の記事の内容は、こんなにも「もう知ってる」と思える内容の割には、ほとんど作中で明言されていないことなのです。
改めて、ブルーアーカイブの語り口の巧みさと、匂わせのうまさに感じ入るところです。

余談

ここまで「連邦生徒会長が間違った、先生の方が正しかった」という連邦生徒会長による語りに基づいて話をしてきましたが、これは先生が無謬であることを意味しません。

というか、先生はわりとよく間違えたり失敗したりしています。

サオリに撃たれたりカイザーに拉致られたり、わりと生命の危機にさらされますし、パヴァーヌ2章が終わった後の調月リオを逃がしてしまっている(※)など結構危ういところがあります。ミカをあそこまで思い詰めさせてしまったり(※※)ね。

端的に言うと、ブルーアーカイブは「先生がいればもう何でも大丈夫」みたいな雰囲気を醸し出すし、生徒たちも頼りになるとかそういう感じのことを言ってくれはするけれど、でも実際のところ別に全然そんなことないよなということです。

実際あいつ、「最悪大人のカード使えば自分は死んでも生徒はなんとかなるでしょ」くらいの刹那性がありますからね。
アロナ、頼んだぞ……!

※調月リオについて

先生が調月リオを逃がしてしまったというのは、先生がリオに会ったり何らかの話をしたりするべきということではありません。
というか、心底弱っている生徒(子ども)に大人が近寄って慰めるのってそれだけで結構気持ち悪いですよね。

先生以外に向き合える人間がいないのならまだしも、リオにはセミナーの仲間たちがいます。
少なくとも、リオのことを仲間だと思ってくれている人たちが。

なので先生がするべきだったのは、リオとユウカとノアを一つの部屋に閉じ込めてユウカにお説教をさせるとか、ノアに仲裁させるとか、そういう生徒同士でのやりとりができる場を作ることで、この意味でリオを逃がしてしまったのは惜しいんですよね。

リオが世界の危機を自分事と捉えて真剣に向き合って出てこざるを得ない性格をしていたので、最終編でなんとか希望の芽が出てきたところではあります。本当に良かった。

同じ意味で、カヤにとっても先生や他の大人が「救い」になってほしくはないなと思っています。
ハイネ、お前が頼りだ……!
本当にそうかな?
実際のところ、「防衛室の仕事はお前が一番得意なんだからお前ががんばれ」とリンちゃんが尻を叩くことが一番望ましいあり方な気がしますけどね。

余談の余談ですが、連邦生徒会長がみんなに慕われていたのはただ単に連邦生徒会長の人柄や振る舞いに依るものだったのに、不知火カヤは立場や成果によって慕われていたと勘違いしていたような風情があり、趣を感じますね。

※※聖園ミカ……

基本的には生徒の自主性に任せるというのと、大人が介入しすぎるより生徒同士の間で事を収めてほしいという気持ちからナギサとセイアにミカの対応を任せようと思っていたところ、セイアの体調が思っていたよりも悪すぎてエデン条約編4章になってしまいました。

ミカは依存性の強い女なので、先生断ちが重要だしな……と思っていたらあそこまで行ってしまったんですよね。
絆ストーリーでは依存症患者の薬抜きみたいなしょっぱい話をたくさん見せてくれます。

おことわり

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