あなたが想えば想うより

 カタンと、頼んでもいないチョコレートケーキが僕たちのテーブルに置かれた。
 僕が見上げると店員であるスタンリーがいた。今年で36歳になる彼は普段出ている腹を無理矢理引っ込めて、にっこりと僕の対面の席の女性に向かって笑っている。
 そんな対面の席の女性、不破希望(ふわのぞみ)は突然現れたチョコレートケーキに対してなにがなんだか分からず、僕とスタンリーの顔を交互に見た。
「えっ? な、なにっ? ハルキ、私これ頼んでない」
「あー多分サービスだよ。のんちゃんへの個人的なやつ」
 そうだろと英語でスタンリーへ話しかけると、彼は僕と目を合わせ、小声で「お前のじゃないぞ」と囁いてきた。知ってるよ。
「可愛らしいお嬢さんに、当店からのサービスです」
 改めてスタンリーが彼女へ話しかける。普段のだるそうにコーヒーを運んでくる姿と大違いだ。
「……ん? ハルキなんて言ってるの?」
「可愛らしいお嬢さんに、当店からのサービスです。だって」
「え、か、可愛らしい? ほんと。ほんとに? えーやだぁ、困っちゃうなぁもう。あっ、サンキュー、サンキュー!」
 まんざらでもないみたいな顔でのんちゃんが手を振る。スタンリーの方はなんかかっこつけて無言で僕たちの席から離れていった。
 にしてもいくらアメリカがオープンな国民性とはいえ、入った店で店員からいきなり声をかけられるなんて。どうやらこの人の美しさというか可愛らしさというのは日本に限った話ではないようだ。
「えーサービスだって。私こんなことしてもらったの初めてかも」
「まぁ日本ではあんまりないだろうねぇ……その、お国柄的な意味でね」
「全然ないよー。あっでも、この前知らないお兄さんにお酒奢ってもらった」
「さいですか」
 そいつはよかったと思いながら僕はコーヒーを飲む。可愛いと言われたことと思わぬサービスを受けられたことでのんちゃんはすっかり上機嫌な様子で、ニコニコしながらコーヒーを飲み、ケーキを食べている。
 日曜日の昼過ぎ、僕にとっては貴重な休日だ。普段なら出版社に送るシナリオを書いているところだけど、今日に限っては違った。
 目の前にいる女性、不破希望から「今空港にいるから迎えに来て」との連絡があった。それも今朝。二度寝をしようとしたところで。
「あのさのんちゃん、ケーキ食べてるとこ悪いんだけど」
「ん? どうしたのハルキ」
 口元についたチョコケーキの欠片を拭い、のんちゃんがコーヒーを飲みながら僕を見た。
 猫みたいな大きな目、真っ白な肌、茶髪よりの黒髪は肩の辺りまで伸びていて、日の光に当たってキラキラと輝いているように見える。
 のんちゃんは僕の親の姉夫婦の娘で、まぁつまり従姉だ。僕は現在25歳で、彼女は確か26歳だったはず。
 破天荒で負けず嫌いでなぜかお上品な彼女に僕は幼い頃から無茶をさせられ振り回され続けてきた。
 今日だってそうだ。いきなり電話してきてきて迎えに来いだなんて言うのだから。もし僕と連絡がつかなかったらどうするつもりだったのだろう。
「あのさ……なんで急にこっち来たの?」
「またその話? 言ったじゃん。家出だって」
 もううんざりみたいな顔をしてのんちゃんがコーヒーを飲み干す。いつも行儀がいい彼女にしては珍しくテーブルに肘をつき、カフェからの外の景色を眺めはじめた。
 彼女の綺麗な横顔を見ながら、なんだか嫌な予感を覚えながらも色々と察してしまう。
 おそらく、十中八九、いや確実にキレたのだろう。のんちゃんは昔から自分にとって譲れないことを侵されるとぷっつんとキレてその場をめちゃくちゃにして家出するのだ。
 小学生のときに2回、高校生のときに1回、大学生のときに1回と何度か繰り返し、そしてその度に家族総出で捜索していた。僕も駆り出された。
 今回もきっと、誰かがなんかしらの地雷を踏んでしまったのだろう。それにしても国を跨いでの家出だなんて、スケールアップしてるじゃないか。
「……まぁなんで家出したのかは別に聞かないけどさ。どうすんだよ」
「どうすんだよって、なにが?」
 通りを眺めるのをやめてのんちゃんがこちらを向く。きょとんとした表情をしていて、僕の質問の意味を理解していないようだった。
「なにがって、これからどうすんのって話。こっちに泊めてくれるような知り合いとかいるの? それとも夜には帰るとか?」
「帰んないよ。帰るわけないじゃん」
「……じゃあどこに泊まるんだよ。宿泊先くらいなら探すけど?」
「なに言ってるの。宿泊先はハルキの家でしょ。早く行こうよ」
「……はぁ?」
 この人は今なんて言ったんだ。僕の家、僕の家でなにするって。
 猜疑心を込めた視線をぶつけると、のんちゃんは「ん?」と小首をかしげた。なんか変なこと言ったみたいな顔をしながらも、淡々とチョコケーキの最後の一口を放り込む。
「いや、あのさ……僕の家に泊まるって聞こえ」
「うん、ごちそうさまでした。行こ、ハルキ。夜ご飯の買い物とかするんでしょ」
「話聞けよこいつ」

 ◆◆◆

「わー部屋狭いね」
 借りているスタジオタイプの部屋に入るなり、のんちゃんはなぜかご機嫌な様子で感想を述べた。
 そりゃ一人暮らし用なんだから狭いだろ。スーパーで買ってきた食料品をキッチンへと運びながら心の中でぼやく。
 結局、のんちゃんは僕の部屋に泊まることになった。
 できれば日本に返したかったのだが、絶対に帰らないと言い張る彼女をどうにかすることなどできず、かといって今すぐ宿泊先を手配することもできない。僕は貧乏だし、のんちゃんは突発的な家出をしてしまったので大してお金を持ってこなかったのだ。
 大体、1泊とかならまだしも、何日か滞在するつもりならそんなに無茶できないだろう。のんちゃんの懐事情はよく知らないけど、決して裕福というわけではないはず。
 僕にできることはなにもないし、そもそも彼女の家出と僕の生活はなにも関係ない。勝手にきた人のことなんて知らないし、向こうも大人なんだから泊まるところくらい自分でどうにかするべき――と切り捨てられればどれほど楽だったか。
 僕はのんちゃんのことを見捨てることなどできず、その結果、今彼女は僕の部屋にいる。この部屋唯一の窓に顔をくっつけて外の景色を眺めている。
「部屋は狭いけど、眺めは悪くないね」
 窓から顔を離し、のんちゃんがこっちを振り向いて笑う。まぁ確かにそうだ。むしろこの部屋はそれくらいしかいいところがないと言っても過言ではない。
 冷蔵庫に食材をしまい、「まぁね」と返事をしてマットレスの上に敷いた布団に座った。
「こっちでのお仕事はどうなの? 順調?」
 のんちゃんが僕の左隣に座る。髪を右耳にかけてこちらを覗く仕草に思わずドキッとして「あー……」と意味なく言葉を濁してしまう。
「まぁまぁ、かな。何個かコンペを通ったやつもあるし。まぁ大手の出版社からはなにもないけど……」
「そうなの? でもお仕事貰えてるんだ」
「一応はね。もちろんそれだけじゃ生活できないからバイトしてるし」
「そうなの? どういうバイト?」
「あー……ドーナツショップ」
「えっ、ドーナツショップ? あっそうなんだ。なんか意外かも」
「日本人って理由だけで採用されたんだよ」
「……ん? なんで?」
「店長の奥さんが大の日本びいきだから。ただそれだけ」
「へぇー良かったねぇ日本人で」
「……そうだね」
 なんなんだこの会話は。久しぶりに会ったというのにこんな身のない会話をしていていいのだろうか。
「はー……疲れた」
 バサッとのんちゃんが布団へと倒れこむ。
 そりゃあんなに歩き回れば疲れるだろう。最初は食料品を買うだけだと思ったら服やら雑貨やらレコードやら色々と店を回り連れ回された。
 そのおかげでもう夕方だ。ていうかもうほとんど夜になりかけてる。
 貴重な休日に僕はいったい何をやっているのか。膝に肘を置いて横を見るとのんちゃんが枕に頭をのせて薄手の毛布をかけて目をつぶっていた。
「ガチ寝じゃねぇかよ」
 スースーと穏やかな寝息を立てているのんちゃん。思えば彼女は昔から寝るのが早かった気がする。散々他人を振り回して自分だけすぐに寝てしまうのだ。
 一人暮らしの男の部屋で、しかもすぐ隣に僕がいるというのにこんな無防備な状態で寝ることにこの人はなにも思わないのだろうか。
 呆れて手を出す気にもなれない。起きてきたときのためになんか作っといてやるかと思いマットレスから立ち上がろうとしたら、グッとシャツの裾を引っ張られたような気がした。
 立ち上がるのをやめて振り向くと、のんちゃんが薄目をあけて僕を見上げていた。毛布から腕だけ出して僕のシャツの裾を掴んできた。
「……どうしたの、のんちゃん」
「ハルキも一緒に、寝よ」
 うっすらとほほ笑む彼女。「ね?」と言いながらシャツの裾から肘に手を移し、引っ掛けるように僕の体を引っ張ってくる。
「……なに、どうしたの?」
「だって久しぶりでしょ?」
 答えになってない。どうすればいいか分からず困惑する僕に対して、のんちゃんは微笑んだままさっきよりも強めにクイっと引っ張ってくる。
 久しぶり、だなんて。確かにそうだ。一緒の布団に入るなんて、そんなの小学生の時以来だから、10年以上前だ。
 そもそもこうやって会うのだって5年ぶりくらいになる。
 それなのに、どうして彼女はこんなにも昔みたいな、子供の頃みたいなことができるのだろうか。
「あのさ、のんちゃん僕のこといくつだと思ってる? 10歳とか、12歳とか、そんなんじゃないんだよ?」
「んー? 知ってるよ。ハルキはもう25歳だもんね」
「だったら」
「いいよ」
 引っ掛けていた腕を外して、かけていた毛布を持ち上げる。1人分のスペースを作って僕を誘う。
 空いたスペースを凝視して僕は迷う。ガリガリと頭を掻いて首を振り――ゆっくりと布団の中に入った。
 寝るだけ。とにかく寝るだけだ。それで終わり。そうすればのんちゃんも満足するだろう。
 毛布が僕の肩にかかり、暖かさがゆっくりと浸透していく。
「……んぅ」
 小さく息を吐いてのんちゃんがこちらを向いたまま寝始める。さっきまでは仰向けだったのに。
 柔らかな息遣いと微かな花の匂いが鼻腔をくすぐる。小さな手が頬に触れて少し身じろぎをする。
「こんな状況で寝られるかよ……」
 彼女を起こさないよう小声で呟き、僕は仰向けになって目を閉じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?