難解なことばをつかって

 円形の旧校舎の最上階、やたら広い旧視聴覚室が初三都高校の数独同好会の活動場所だ。
 数独同好会とは名前の通り数独をひたすら解くための会だ。会員は3年生の僕と1年生の後輩だけ。
 僕が1年生の頃は10人くらいいて、皆で数独の大会に出るとかそれ以外にも色んなことをやっていた。数独なんて言うと暗くて地味で地道なイメージだが、普通に明るくて陽気な同好会だったのだ。
 しかし、そんな同好会も今や数が減って2人だけ。しかも僕は3年生になるので来年にはいよいよ1人になる。
 会員不足に陥ることに関して、僕はなんとも思ってない。昔ほど熱心に数独に打ち込んでもいないし、それを咎める人もいないのだから、活動も適当になるだろう。
 どれくらい適当かと言うと、旧視聴覚室のばかでかいモニターに自宅からこっそり持ってきたゲーム機を繋いで遊んだり、机と椅子を組み合わせて迷路を作ったり、これまた机をつかってコースを組み上げ、ミニ四駆を走らせたりなどしていた。
 それくらいやりたい放題していたのだ。
 今日は適当にゲームでもするかと思いながら配線を繋いでいると、廊下からコツコツと足音が聴こえてきた。
 旧校舎のそれも現在使われていない旧視聴覚室に来る人物なんて限られている。守衛の金森さんか、用務員の田口さん、それと──
「おはようございます、水澄(みすみ)先輩」
 ガラっと教室のドアが開き、女子生徒が入ってきた。数独同好会のもう1人の会員、小手鞠光音(こてまりあると)だ。
 長い黒髪、少したれ目の大きな瞳、スッと筋が通った鼻、薄くて小さい唇、古風な顔立ちの和風美人といったビジュアルで、うちの高校でもかなりの人気を誇る美少女。
 だが、彼女が人気な理由は決してそのビジュアルだけではない。一高校生であるはずの小手鞠光音が就いている職業こそが人気の理由となっているのだ。
「おはよ、小手鞠」
 僕がいつも通り挨拶を返すと、小手鞠光音はニコッと笑顔を見せ、僕の隣の席に座ってきた。
 髪の毛が揺れて、ふわりと柔らかい匂いが広がる。綺麗な女子は必ずいい匂いがする。
 席につくなり小手鞠光音は通学鞄からごそごそとなにか──淡いオレンジ色のファイルケースを取り出した。
「これ、新作です。よかったら読んでください」
 ファイルケースの中には紙の束が入っていた。ダブルクリップで留められていてひたすらに文字が並んでいるのが見える。
「いや、あの。ありがたいんだけどさ……ほんとにいいの? これ?」
「もちろんです。あ、でもネットとかに流しちゃダメですよ」
 真面目な顔で僕に忠告をする小手鞠光音。じゃあ渡すなよなんて思いながらファイルケースに入った紙の束をパラパラとめくる。左下の数字を見るとざっと300は越えていた。
 わたしに言わせないで──最初のページに書かれたタイトルを心の中で読み上げ、僕はとりあえず紙の束、いや、発売前の小説をファイルケースに戻した。
「良かったら、読んだ後感想くださいね」
「……はい」
 素直に頷いてファイルケースを通学鞄にしまう。
 そう、小手鞠光音は小説家なのだ。
 しかもただの小説家ではない。現役美少女高校生作家だ。瑞々しくも深い物語性のある作品を手掛ける彼女は、作品はもちろんのこと、その圧倒的なビジュアルも注目され、いまや様々なメディアに引っ張りだことなっている。
 そんな小手鞠光音から、僕は定期的に小説を読ませてもらっている。息抜きでパパっと書いたショートショートから今回のような書籍化される作品までだ。
 なぜ僕のような一般人に彼女が小説を読ませてくれたり、数独同好会の暇潰しに付き合ってくれるのか。
 女の子と付き合ったことのない地味な僕の前に突如現れた美少女小説家。しかもなんだか僕に懐いてくれている。そんな奇跡みたいな時間が3年生になってからずっと続いているという。
 なんていうか、僕の灰色だった高校生活にようやく明るい色が差し込まれたような、そんな感覚だ。
「先輩、来週の木曜日暇ですか?」
 ちょこんと椅子に座って少し前のめりになって背を反らす。小手鞠光音が顔だけこっちに向けてジッとこちらを見つめながら質問してきた。
 相変わらずあざとい仕草だなぁと思いながら、僕は彼女からの質問の答えを解くに悩むこともせずに返す。
「来週の木曜日、まぁ、普通に暇だけど」
「ほんとですか? 良かったぁ……先輩って『リベンジェンス』シリーズ好きですよね?」
 両手を合わせて口元を隠しながら、小手鞠光音が囁く。
 確かにそれは僕が好きなアクション映画のシリーズで、少し前にも2人でこの視聴覚室でシリーズ第1作の映画を観ていた記憶がある。
「好きだけど……どうしたの」
「最新作、一緒に観に行きませんか?」
 あまりにもストレートすぎるお誘い。大きな瞳でこちらを覗く小手鞠光音の姿は無邪気で蠱惑的な妖精のようだった。
 リベンジェンスシリーズの最新作。確かにそれは今週から公開されていて、僕も近いうちに観に行こうと思っていた。無論1人で。
 なので急に誘われてもという感じではあるのだが、とはいえ、小説以外の仕事でも普段から忙しくて中々学校に来れない彼女がこうやって僕のために時間を作ってくれたのだから、是非とも一緒に行くべきだろう。
 それに小手鞠光音の口ぶりから察するに、これは多分デートだ。放課後に制服姿で映画館に行って映画を観て、終わったらどこかでご飯みたいな。そういう制服放課後デートに違いない。
 ジッと小手鞠光音が僕の顔を覗き込んでくる。上目遣いでこちらを見つめてくる彼女に対して、僕は──
「……行きますか」
 素直に好意を示した。
「ほんとですか? やったぁ!」
 目を細めて満面の笑みを見せる小手鞠光音。めちゃかわ。
 100%の笑顔を真正面で見てしまい、僕はすぐに口元に手をやってニヤつくのを隠す。
 小手鞠光音は計算高い女だ。これは本質情報なのだが、彼女は自分が可愛い女の子だってことを知っていて、その上でこんな単純かつカロリーが高いアプローチを仕掛けてくる。
「じゃあ木曜日ですね。待ち合わせ場所は……あっ、ここにしますか?」
 両手の指をクロスさせて、こちらへ微笑みかける小手鞠光音。過度に女の子らしいあざとかわいい仕草に僕はすっかりやられてしまい、「……そうっすね」なんて変な返事しかできなくなる。
「……たのしみ」
 ボソッと小手鞠光音が僕に聴こえるか聴こえないかくらいの声量で呟く。
 僕はそれを聴こえないフリしながら机の上で頬杖をついた。
 ここまで小手鞠光音は随分と僕の気持ちを掻き乱しているのだが、今日はまだ優しい方だ。
 普段はもっとすごい。実際に触れ合ってのスキンシップこそないが、やたらと甘ったるい声で僕をからかったり、楽しそうに笑ったり、と思ったら学校の廊下で会ったりすると急に恥ずかしそうに俯く。通り過ぎた後チラッと振り向くとちっちゃく手を振ってくるのだ。とにもかくにもこちらの感情を揺さぶってくる。
 なぜ彼女ほどの美少女が僕のような地味で冴えない男子にアタックしてくるのか、その理由は既に分かっている。至極簡単で単純明快だ。
『私はまだ恋を知らないんです。人を好きになったことがありません。だから、恋愛小説は得意じゃないんです』
 小手鞠光音は小説家だ。面白い小説、上手な小説、素晴らしい小説を書くために、日夜ネタを探している。
 そして彼女曰く、優れた小説を書くためにはなによりも経験が大事だと言う。自らが経験をしたからこそ、読者を惹き付けられる文章が書けると、信じているらしい。
 だから小手鞠光音は僕にアプローチを仕掛けてくるのだ。
 恋とか愛だとかを『経験』するため、僕と疑似恋愛しようとしているのだ。そうじゃなきゃ、こんな普通の人間に構ってくるわけがない。
 本当に見上げた作家精神だ。まぁただひとつ彼女の間違いを指摘するとしたら、疑似恋愛の相手役になぜ僕を選んだのかというところだけど。
 彼女ほどの美貌を持っているなら、僕なんかよりももっと顔面の偏差値が高い人を相手役に据えればいいのに。その方がきっと楽しいだろう。
 それとも、彼女が欲している『経験』というのは相手役がイケメンだと成立しないのか。
「水澄先輩? どうしたんですか?」
 頬杖をついたまま考え込んでいると、小手鞠光音が席1つ分椅子を動かしてこちらへと近づいてきた。
 曇りのない純粋な瞳が僕を捉える。チラリと彼女を見て、僕は頬杖をつくのをやめて背もたれに身を預けた。
「別になんでも……ほんと小手鞠って演技上手いよな。小説家もいいけど女優もできるんじゃないか?」
「どういうことですか? 演技ってなんの話です?」
 ムッと唇を尖らせ小手鞠光音が少しだけ身を前に出す。キュートな怒り方だ。
「僕に少なからず好意を抱いてるって演技だよ。好きでもない相手によくやるよ」
「……先輩、まだそんなこと言ってるんですか?」
「そっちが始めたことだと思うけど……」
 数独同好会に入って2ヶ月ほど経ったある日、小手鞠光音が突然宣言したのだ。「小説のために私は水澄先輩のこと好きになります」なんて言ってのけた。そこから彼女の疑似恋愛プロジェクトが始まったのだ。
「違いますよ。私が言ったのは「小説のため、私のために、私は水澄先輩のことを好きになります」です」
「大して変わらないと思うけど」
「ニュアンスが違います。大事なことですよ」
「別にどっちでもいいけど……そもそも、好きになりますってのがおかしいと思うが。好きになりました。ならともかく」
「それは……確かにそうかもしれないです」
 なぜかあっさりと自分の間違いを認める小手鞠光音。急な潔さに肩透かしを喰らってしまい、僕は思わず「ん?」と小首をかしげる。
「ていうか、疑似恋愛ならもういいんじゃないのか? もう十分データはとれただろ?」
「えーまだですよ。全然足りません」
 小手鞠光音がきっぱりと言い放つ。
 足りないなんて言われても、これ以上なにをしろと言うのか。そもそも僕は3年生で小手鞠光音は1年生だ。一緒にいられる時間はもうあまり残されていない。
 ふと、思った。僕が卒業したら小手鞠光音はどうするのだろう。僕以外の誰かと経験のための疑似恋愛を続けるのか、なにもせずに暮らしていくのか。
 今はこうして彼女とおしゃべりができているけど、来年はきっとまた別の男が相手になっているかもしれない。
 なんかやだなぁと思った。小手鞠光音が僕以外の男と楽しそうに喋っている未来も嫌だし、付き合ってもいないのに嫉妬している自分がいることも嫌だ。
 経験のための疑似恋愛なんだって分かりきっているはずなのに、僕だけ本気になっているみたいで、それがなによりも嫌だった。
「水澄先輩? どうしたんですか、変な顔して」
 隣にいる小手鞠光音が不思議そうな顔で僕を見つめてきた。いつの間にか嫌悪感が顔に出ていたらしい。変な顔とか言うなよ。
「あーなんでもない。なんでもないよ。ただ自分のちょろさが嫌になっただけ」
「……そうなんですか? まぁ、その……」
「気にしなくていいから」
 どうにかしてフォローをしようとするのを断って、僕は思わず天井を仰ぐ。
 気分を落ち着かせて小手鞠光音へ視線をやると、彼女は閉じた膝の上に小さな手を置いて、もどかしそうな表情をしていた。
「まだ全然足りないです」
 ぼそりと下を向いたまま彼女が呟く。さっきの話だ。もう終わったものだと思ったけど、小手鞠光音の中ではまだ終わっていなかったらしい。
「恋愛のこともそうですけど、今は水澄先輩のことをもっと知りたいんです」
「……なんで僕なんだよ。ほんとに、僕じゃなくてもいいんじゃないのか」
 自虐的な僕の返事に小手鞠光音がふるふると首を横に振る。
 彼女が顔をあげる。ウルウルと瞳を揺らしていて、今にも泣き出してしまいそうな表情だった。
「先輩じゃないと、だめなんです」

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