君に逢えたら

「はい……はい……まぁ、なんとか、明日には。そうですね、たぶん大丈夫だと思います。はい……すいません、ご迷惑おかけして。はい……ありがとうございます。すいません、失礼します……」
 少しだけ相手の反応を待つ。これといって言葉が続かないようなので、ひとまず通話を終了させた。
 ホーム画面に戻ったスマホを眺め、時計で時間を確認する。現在朝の6時20分。いつもだったらもう少ししたら家を出て職場へ向かわなければいけないのだが、残念ながら――残念でもないけど――今日は違う。
 風邪をひいてしまった。熱もある。
 大学生のときに1人暮らしを始め、そこから5年。社会人1年目という大事な時期にちょっとした油断と疲れのせいで仕事を休まなければいけないほどに追い詰められた。
 大した能力も持っていないのだからせめて休むことなく働こうと思っていたのだが、やはりそう上手くはいかないらしい。
 まぁ単純に僕の体調管理ができていないだけなのだが。
 このまま布団に入って寝たいけど、残念ながらそうもいかない。薬を飲まなければ良くならないだろう。ノロノロと部屋の中を歩き、台所にある冷蔵庫を開ける。
 昨日買った食料とスポーツドリンク。とりあえずスポーツドリンクのペットボトルを手に取り、部屋の端にある布団へと投げた。
「なんか食べなきゃな……」
 冷蔵庫を閉めて部屋の中を見回す。実家から持ってきた布団と餞別として姉からもらったローテーブル。唯一買った家具の座椅子しかない僕の部屋は大して物がないのに狭いという悲しい有様だ。
 まぁ一人暮らしの男の部屋なんてこんなものだろう。自分に言い聞かせ、ローテーブルの上に置いてあったビニール袋を拾い上げ、開けてみる。
 中に入っていたのは菓子パンと総菜パンだった。パンって気分じゃないけれど、何か食べないと薬を飲んでも大して意味がないのでとりあえず食べることにした。
 モソモソと咀嚼しながら機械的にパンを口の中へと入れていく。
 虚無への供物だ――自分で食べているだけなのになんだかそんなことを考えてしまい、ますます食べる気が失せてしまう。
 それでもなんとか食べきって、すぐに風邪薬を飲む。またノロノロと歩いて布団へ戻り、もぞもぞと掛け布団をかぶる。
 汗をかいているのに寒い。意識的に気を抜くと歯が震えてガチガチと音が鳴る。下あごのところまで布団をかぶるがまだ寒い。
 息苦しいうえに頭が痛い。とにかく寝よう。一度寝てしまえばどうにかなるだろう。
 大学生の頃アホみたいに酒を飲んで二日酔いで寝込んだことはあるが、風邪で寝込んだことは意外にもなかった。
 要するに初めてなのだ。たった1人で寝込むなんてことが。
 そりゃ実家にいた頃も風邪で寝込んだことくらいあったし、家族全員が家を空けて1人になったこともある。
 でも、心のどこかで誰かが帰ってきてくれると信じていたし、実際姉なんかは高校生のとき普段は遊んで帰ってくるのに、あのときはまっすぐ帰ってきてくれた。
 こうして1人になって風邪で寝込んで。しかもそれを知っているのは関係性が薄い職場の上司のみ。僕の様子を見に来てくれる人なんていないだろう。
 誰かにSOSを送るにもその誰かがいない。友達もいなけりゃ知り合いも少ない。さすがにいないことはないけれど、向こうは忙しいのだから僕に構ってる暇なんてないはずだ。
「別に……なんでもいっか」
 あえて声に出してみる。弱弱しい僕の声は誰にも届くことなく澱んだ空気の中に沈んでいった。
 このまま誰にも発見されず死ぬかもしれない。1人暮らしで寝込んだときのテンプレみたいな不安に苛まれかけるが、すぐにどうでもよくなる。
 強がってるわけじゃない。本当にどうでもいいんだ。僕は別にいつ死んでもいい。
 僕が死んでも悲しむ人なんて――ちょっといるかもしれないけど、死んでしまったらそんなもの観測できないのだから、意味ないだろう。本当にいつどんな風に死んでもいいんだ。
 死んでしまったら後にはもう何も残らないのだから。
 とはいえ、僕は別に自殺志願者ではないので寝ることにする。なんか食べて薬を飲んで水分も摂っているのだから、そんな簡単に死なないだろう。ただの風邪ならよくなっていくはずだ。
 とにかく目を閉じて意識が沈んでいくのを待つ。
 ゆっくりと段々世界が閉じていく。寒さに堪えながら掛け布団を掴み、ジワジワと体の外側だけがゆっくり暑くなっていく。
 ふと、僕はあの人のことを思い浮かべた。

 ◆◆◆

 熱いのに身動きがとれなくて、僕は無理やり目を開いた。
 見慣れた天井が視界に映り込み、意識が徐々に覚醒していく。
 泥の中から起きたみたいに体が重い。起き上がれない。
 じっとりと背中が汗を掻いている。頭痛はおさまったがだるいのは相変わらずだった。
 ひとまず水分補給だ。枕元に置いてあるスポーツドリンクを飲むため、グッと体の向きを変える。
「あ、起きたんだ」
 枕元に浜咲麻衣がいた。
 突然の登場にフリーズしてしまう。ポカンと口を開けて彼女を見上げ、すぐ隣にあるペットボトルを手に取る。
 寝転がったまま飲もうとしたのだが、上手くいかず気管に入りかけて咳き込んでしまう。
「ゴホッ、ゴホッゴホッ、ゴフッ」
「ちょっと、もう。大丈夫?」
 浜咲麻衣がのぞき込んで心配してくる。ペットボトルの蓋を閉めながら「だいじょうぶっ、だいじょうぶだから」と言って手を振った。
 左ひじをついて手のひらに右手の拳をのせる。腹筋と腕に力を込めてなんとか起き上がり、掛け布団をのける。
 ふぅっと息を吐き、ゆっくりと浜咲麻衣の方を向いた。
 茶髪よりの艶やかな黒髪ミディアムロング。大きな目に薄い唇。シャープなフェイスライン。いつどこでどんなときに見てもめちゃくちゃに美人だ。
 こんな殺風景な部屋でロンTとスカート風のサルエルパンツというラフな格好でも素材が限りなく極上なのだから絵になってしまう。美人っていうのは本当にすごいものだなんて、しょうもないことを思ってしまう。
「少し良くなった?」
 浜咲麻衣が僕に訊ねる。ぼんやりとする視界と意識の中でも彼女の声だけははっきり聴こえるし、目線だってしっかり捉えられた。
「そうだね……朝よりかは、まぁ」
「そっか、良かった。なんか作ろっか?」
「あーすごく助かるんだけど……」
「ん? どうしたの?」
「なんで貴女がいるんですかね……」
 最初っから気になっていたことがようやく聞けた。ていうかなんで僕が聞かなきゃいけないんだ。普通そっちから言うもんじゃないのか。
 至極真っ当な疑問をぶつけると、浜咲麻衣は特に慌てる様子もなく「はい」と言って後ろのローテーブルの上に置いてあるタオルを渡してくれた。
「なんでって、朝人が風邪ひいたって聞いたから」
「誰に?」
「店長さん。今日は仕事が早く終わったから朝人のところ行ったらお休みだって言われて」
「そう……そうだったんだ。じゃなくてさ、なんで部屋にいるの? 僕まだカギ渡してないと思うんだけど」
「部屋の鍵なんてかかってませんでした。駄目だよ気をつけなきゃ」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
「……あー気を付けるよ」
 一瞬浜咲麻衣が何らかの方法で鍵を開けたんじゃないのだろうかと思ったが、すぐにそんな考えは消え去った。
 彼女ほどの人がそうまでして僕に会おうとは思わないだろうし、僕は適当な部分があるので、浜咲麻衣の言う通りマジで鍵をかけ忘れたのだろう。
「なんか作るね。食べられそう?」
「軽いものなら。多分、いけると思う」
「良かった。サッと作っちゃうね」
 スッと浜咲麻衣が僕に向かって手を伸ばしてくる。
 引っぱたかれると一瞬思ったが、そんなことはなく、浜咲麻衣は僕の額に、というより額にいつの間にか貼られていた冷えピタに触れた。
「汗掻いたから新しいのに替えよっか」
「どうも……そういえば今何時?」
「今はね、4時半かな。私がこっち来たのは2時ごろだったから。そのときはもう寝てたよ」
「そっか。あーでも、途中で1回起きた気がする」
「そうなの? まだ眠い?」
「いや、もう眠くはないかな」
 額の汗を拭きながら浜咲麻衣から新しい冷えピタをもらう。僕は持ってないからきっと彼女が買ってきてくれたのだろう。
 浜咲麻衣が台所に入り調理を始める。
 僕は彼女の後姿を眺めながら新しい冷えピタを貼って、また横になった。


「ごちそうさまでした」
 浜咲麻衣へしっかりと頭を下げ、ペットボトルの水を喉に流し込んだ。
「うん、全部食べれたね。えらいえらい」
 子供をあやすような口調で浜咲麻衣が僕を褒める。カチャカチャと使い終わった食器をまとめてシンクへと持っていく。
 正直彼女が作ってくれた卵粥と豚汁は量が多かった。
 普段なら食べれない量ではないけれど、風邪っぴきの人間には少々しんどかった。
 とはいえ、食べなければ元気にならないし、せっかく作ってくれたのだから残すのも忍びない。そう思って頑張って完食したのだが、正直ちょっと無理したと思う。
 まぁ量が少ないよりはマシだろう。
「明日には仕事行けそう?」
 台所の方から浜咲麻衣の声が聴こえてくる。僕はテーブルの上に置いてある体温計を手に取ってスイッチを入れて腋に挟んだ。
「多分、行けると思うよ」
「そっか、良かったね長引かないで」
「お姉さんのおかげですよ」
「はいはい、どうも」
「いや、まぁほんとに」
「分かってるって」
「……」
「……なんで言ってくれなかったの?」
「……ん? なに? なんて」
「どうしてすぐに連絡くれなかったの?」
 台所の片づけを終えて、浜咲麻衣がこっちに戻ってくる。
 体温を測っている僕のそばに座り、悲しそうな、寂しそうな瞳で僕を見つめてきた。
 少しだけ沈黙が続き、やがてピピピピという体温計の電子音が狭い部屋に響いた。
 スッと腋から体温計を抜いて結果を確認する。37度4分、平熱に近づいている。
「連絡なんてするほどの体調じゃなかったよ」
「お仕事休んで寝込んでたのに?」
「あーいやまぁ、それはそうだけど。でもそれを言うなら君だって仕事があるんだから無理して僕のとこに来る必要なんてなかったと思うけど……」
「話ずらそうとしないで。私にうつしたくないから黙ってたの?」
「……そうだね。うつしたくなかったし、君に迷惑をかけたくなかった。結果的にはかけちゃったけど。今もかけてるし」
「迷惑なんて思ってないよ。朝人は私に心配されるの迷惑なの?」
「そんなことないよ。けど、そんな心配しなくても大丈夫だよ。僕はそこまで脆い人間じゃない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「強がってない?」
「強がってないよ」
「じゃあ無理してる」
「無理は……してるかも。いつもしてる」
「……私の前でくらいは、無理しなくていいんだよ?」
「多分一番無理だよ」
 浜咲麻衣と知り合ってもう4年は経ってる。だというのに、僕はまだ彼女のまっすぐな眼差しを正面から受け止めることができない。
 未だに信じられないんだ。浜咲麻衣が僕のそばにいて、僕のことをジッと見ているなんて。
 僕のことを心配してくれているなんて、そんなの悪い夢だ。極上の悪夢だ。
「まぁでも、色々やってくれて本当に助かったよ。ありがとう」
「……なら、いいけど」
 浜咲麻衣が口を尖らせる。僕は体温計をテーブルの上に戻し、膝に手をついてグッと立ち上がった。
「明日も仕事あるんだろ? 今日はもう、帰ったほうがいいよ」
「大丈夫? 泊まらなくていいの?」
「あいにく布団は1組しかないし、風邪ひいてる人間のそばにいるべきじゃないよ」
「んー……分かった。今日はもう帰るね」
 浜咲麻衣も立ち上がり、壁にかけていたコートを手に取る。
 一応玄関のところまで彼女を見送る。といっても僕の住んでいる部屋は狭いワンルームなので、少し足を動かす程度なのだが。
「じゃあ、もう帰るから、なにかあったら連絡してね」
「連絡できる元気があれば」
「またそんなこと言ってる……本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「……」
 心配そうな表情で浜咲麻衣が僕を見てくる。
 なんだか今日はこんな顔させてばかりだ。僕は頭の後ろを掻きながら、「あーあのさ」と沈黙をうち破るように声を絞り出した。
「1人暮らしで風邪ひくと、嫌な夢見ない?」
「見る、けど……1人暮らしじゃなくても見ない?」
「うん、そうなんだけど。それで、しんどい時ってなんかやたら人の顔が浮かぶらしい。家族とか恋人とか友人とかそういう間柄の人の顔が浮かぶんだって」
「うん、分かるよ。それで……朝人は誰の顔が思い浮かんだの?」
「君の顔が思い浮かんだ」
 浜咲麻衣の大きな目が見開かれ、さらに大きくなる。
 僕の言葉が相当予想外だったのか、ぽかんと口を開けてしまっていた。
「会いたいとか、寂しいとか、助けてほしいとか、そういうことじゃなくて、ただ君の顔が思い浮かんだんだよ。それで、起きたら君がいた」
「……それで?」
「いや、ただそれだけなんだけど。えっと……つまり……」
 言葉が繋がらない。緊張して喉が渇く。
 僕はいったいなにが言いたいのだろう。こんな、彼女を引き留めるような真似までして。
 本当に風邪なんてひくんじゃなかった。ただでさえ鈍い判断力がちっとも機能しなくなってしまう。
 スウェットの裾をぎゅっと掴み、どうにか浜咲麻衣と目を合わせた。
「起きたとき、君がそばにいてくれて、良かった」
 なんとか言い切って、スウェットの裾から手を離す。
 自分の顔が赤くなっているのが分かる。風邪なんかのせいじゃない。ただ動揺しているだけだ。
 恥ずかしい感情でいっぱいになってしまった僕に対して、浜咲麻衣も同じくらい赤くなっていた。真っ白な頬を上気させて瞳を潤ませている。
 やがて彼女が僕に向かって手を伸ばしてきた。
 正確に言うと僕の額だ。しっかりと貼られた冷えピタを上からなぞり、ゆっくりと腕を下す。
「今夜はちゃんと、鍵かけなきゃだめだよ?」
 僕たちは互いに目を合わせ、赤い顔のまま笑いあった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?