感触をまだ確かめていたい

 平日の午前11時。大学の講義はなしで、珍しくバイトもない。1日中休みでやらなきゃいけない課題もレポートもない。完全に自由な1日だ。
 そんなバイトと大学でいっぱいいっぱいの貧乏学生にとってはまたとない日だというのに同居人が起きてこない。
 昨日の夜に話をしたばかりなのに。しかもこいつが言い出したことなのになんでグースカ寝てるんだ。
「燕、お前いつまで寝てんだよ」
 引き戸の向こうで寝ている同居人へ声をかける。反応はなし。
 ルームシェアをしているとはいえ、いや、ルームシェアをしているからこそ普段俺は同居人のプライベートな空間にはなるべく入らないようにしているのだが、今回は仕方がない。なにせ向こうから言ってきたのだから。
 引き戸を開けて部屋に入る。窓の近くにある折り畳みベッドにはワインレッドの冬用掛け布団がかけられていて、人間1人分のふくらみがある。
 キュッと限りなく小さくくるまったその寝姿を見下ろし、俺はため息をついてもう一度「おい」と声をかけた。
「……」
 無視。俺は苛立ちを抑えながら近寄り、掛け布団を勢いよく引っぺがす。
 丸まって寝ている同居人、九条燕は突然掛け布団がなくなったことに対し「……んぅ」と唸りながら手をかざし、ゆっくりと目を開いた。
「なんだよー優しく起こせよー」
 子供みたいなことを言って燕が体を起こす。まだ完全に意識が覚醒していないようで、寝ぼけ眼で俺のことをジッと見てくる。
 俺は引っぺがした掛け布団を放り投げ、シャッとカーテンを開けた。
「うわぁんっ、なんだよー眩しいだろー」
「眩しいだろーじゃねぇよ。お前今日のこと忘れてるだろ」
 呆れた調子でぼやくと燕は目をギュッとつぶり、ふぅっと深く息を吐いた。
「んぅー? 今日のこと? なんかあったっけ?」
「お前が銭湯に連れてけって言ったんだろ!」
 カッと声を張ると燕が上体を仰け反らせる。これ以上ここにいてもしょうがないので、とりあえず部屋を出る。
 そう、昨日の夜のことだ。最寄り駅の向こう側、あまり行かない南側方面に最近ひっそりと銭湯ができたから一緒に行こうよと突然言ってきたのだ。
 燕はもちろんのこと、俺も休みだったし、断る理由もなかったので快く引き受けた。
 だというのにこいつは呑気に爆睡。自分で言ったことを完璧に忘れている。
「ふわぁ、もう11時なんだ……」
 のそのそと燕が部屋から出てくる。肩甲骨あたりまで伸びた長い髪を手櫛で梳かしながら洗面所へと向かう。
 燕の身支度を待つことおよそ7分、ダイニングキッチンのテーブルに肘をついて待っていると、部屋の引き戸が開く音が聴こえてきた。
「お待たせ、行こう」
 黒のワイドパンツとB級サメ映画の謎のシャツ、グレーのオーバーサイズのカーディガン。プライベートでよく見る小さなレディースブランドのバッグを持っている。
 まっすぐ伸びた長い黒髪、大きな瞳、潤んだ唇、驚くほど小さい顔と頭。俺の同居人である九条燕はまるで男とは思えないほど綺麗な顔立ちをしていた。
「お前銭湯行くんだぞ。そんな気合い入れたバッグ持ってどうすんだよ」
「別に気合い入れてないよ。ちょうどいいサイズがこれしかなかっただけ」
「てゆうかお前タオルとかバスタオルは? そのバッグに入んの?」
「……迅が持ってくんじゃないの?」
「……分かったよ。もう行こう」
「うん、いこー」
 ぱたぱたと歩き燕が先に部屋を出る。すっかり見慣れた幼馴染の女装姿を見て、俺はテーブルの上に置いていたリュックを背負う。
 普段より少し重い。確かにあいつの言う通り俺のリュックには2人分のタオルとバスタオルが入っているのだ。
「……なんでバレたんだ」

 ◆◆◆

 九条燕は女装家だ。
 昔から女の子の服を着たり、俺の妹と一緒にメイク道具を買いに行ったりなんてこともしていた。
 大学生になった今も変わらず、むしろそんな姿を結構な人が受け入れており、燕はある意味で我が大学の人気者でもある。まだ1年生だが何人かの男に付き合おうと告白もされたらしい。
 もちろん、今日訪れた銭湯でも、最初男湯に入ろうとしたときに慌てて止められたし、事情を説明して入った後でもすでに入っていた客にギョッとされてしまった。
 まぁしかしそんな反応をされるのも別に初めてではないので今更どうこうってこともないのだが。
「はーやっぱ足が伸ばせる風呂はいいねぇ」
 大きな浴槽に浸かりながら燕が息と共に言葉を吐き出す。
 隣にいる俺は「そうだなー」なんて言いながらバシャッとお湯を顔にかけた。
「お前の実家の風呂、でかかったよな」
「あーそうだったねぇ。あれだけは好きだったなぁ」
 フッと自嘲する燕。現在こいつは実家からほとんど勘当されている状態で今年の夏休みも実家に帰ることはなかった。
 まぁ家族の問題だ。俺がどうこうできることではない。
「今年の正月は家に帰るのか?」
「えー帰んないよ。追い出されてるし」
「鳩子さんとかとは会ってないんじゃねぇの?」
「ちょくちょく会ってるし。お姉ちゃんとはいつでも会えるからね。そういう迅は? 正月帰らないの?」
「俺? うーん……まぁ別にいっかなぁ。うん、まぁいいよ」
「……もしかして、僕に気ぃ遣ってくれてる?」
「まさか、そんなんじゃないよ」
 本当だ。実際今年の夏は俺だけ実家に帰ったし。残念ながら俺はそこまで殊勝な人間ではないのだ。
「露天風呂行こ」
 燕が立ち上がり浴槽から出ていく。俺もタオルを回収し後に続く。
 ペタペタと歩いて外へ出て露天風呂に入る。やっぱり先に入っていた人たちが燕の姿を見てギョッとするが、胸もないしちんちんもぶらさがっているので変わった男なんだと思い、少しだけ距離をとった。
 まぁそんなことは俺も燕も気にせず、露天風呂に浸かる。
 外の寒気とお湯の温かさがいい具合に体へ染み渡り、俺は思わず息を吐いた。自宅の風呂では味わえない感覚だ。
「はぁーやっぱたまには銭湯もいいねぇ」
 風呂の縁に腕を置いて、燕がしみじみと呟く。
 ふと燕の方へ視線をやると、細くて白いうなじが見えていた。
 普段は長い髪に隠れていて、なかなか見れない体の部位だ。汗なのかお湯なのか、つうっと水滴が流れて筋ができる。
「……なに」
 あまりにもジッと見ていたからなのか、燕が首を回してこっちを向いた。
 別にそんな責められるようなことでもないと思うのだけれど、俺はなんとなくバツが悪い表情を作り、自分のタオルを絞った。
「いや、久々に見たなぁって思って」
「なにを?」
 俺は燕からの質問に答えず、絞ったタオルを広げて燕のうなじにそっと置いた。
 奇妙な表情で自らの首にかかったタオルを見て、俺を見る燕。
「……いや、なに?」
「いいから、置いとけ」
 視線を前に戻し、虚空を眺める――そんな俺を燕が眺めてくる。
 おそらくなにがなんだか分からないのだろう。俺も正直なんでこんなことをしたのかよく分かっていない。
 あまりにも無防備だから、なんとなく隠してしまいたくなったんだ。多分。
 燕の質問にはっきりと答えず、ぼーっと湯に浸かっていると、向こうも諦めたのか、首にかかったタオルをギュッと握ってリラックスした調子で目をつぶった。
「ねぇ迅」
 しばらく浸っていると、燕が口を開いた。
 チラッとそちらを見ると、燕は自分のタオルを縁に畳んで置いていて、その上に顎を乗せて蕩けていた。
「どした」
 俺もリラックスした体勢をとるため、腕を上げて浴槽の縁に乗せる。
 互いの肘がぶつかって、水が弾く音が鳴った。
「今日、夜ご飯どうするの」
「んー行く途中でうどん屋あったな」
「うどんかぁ……いいね、それでいこう」

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